盤上の親友
夫を亡くして以来、佐伯遥の世界は、静かな灰色のヴェールに包まれたままだった。亡き夫が遺した、甘く懐かしい香りが漂うパンケーキ店。その厨房で一人、遥は不器用に、しかし丁寧に生地を焼いていた。温かい湯気と共に立ち昇る香りは、かつての幸福の残滓であり、同時に、今にも消えそうな彼女自身の存在証明でもあった。外界との繋がりは希薄で、唯一、週に一度、囲碁サロンに足を運ぶのが、彼女のささやかな慰めだった。
サロンのオーナーであり、囲碁の師匠である小野寺聡。白髪交じりの髪を撫でつけ、穏やかな微笑みを湛える彼の物腰は、遥が失った温もりをそっと埋めてくれるかのようだった。「遥さん、その一手は少しばかり…」と、諭すように碁石を置く彼の指先は、静かな空間に響く。その紳士的な態度は、孤独に苛まれる遥にとって、亡き夫の面影を重ねるに相応しい、頼れる存在に他ならなかった。
しかし、近頃、小野寺の関わりは、以前にも増して濃密になっていた。遥のパンケーキ店の経営状況、友人との関係、果ては日々の些細な出来事まで、まるで自分のことのように心配し、細やかなアドバイスをくれるようになったのだ。「遥さんの繊細な心は、この世の荒波には耐えられないだろう」と、彼は囁いた。「私が、遥さんだけのために、安全な場所を用意してあげる。心配いらないよ」
その言葉に、遥は当初、深い感謝の念を抱いていた。しかし、次第に、その過剰とも思える配慮が、息苦しさとなって彼女の心を締め付けるようになった。彼女の唯一の友人である佐藤恵も、その変化に眉をひそめた。「ねぇ、遥ちゃん。あの小野寺さん、ちょっとおかしいんじゃない? あなたのこと、なんだか支配しようとしてるみたいで気持ち悪いわ」
恵の言葉は、遥の心の奥底に潜む小さな不安を刺激した。だが、小野寺を傷つけたくない一心で、彼女は友人の言葉を退けた。「そんなことないわ。先生は、私のことを本当に心配してくださっているのよ」遥は、恵の心配を、小野寺への裏切りだと感じていた。
ある雨の日の午後、遥は意を決して、パンケーキ店の経営が芳しくないことを小野寺に打ち明けた。彼の表情は一瞬曇ったが、すぐにいつもの穏やかな笑みに戻った。「そうか、それは大変だ。君のために、私にできることがあるかもしれない」小野寺は、遥の店の経営権を一時的に預かりたいと申し出た。断りきれず、曖昧な返事をする遥。小野寺は、その隙を見逃さなかった。彼は手際よく店の改装を進め、メニューを刷新した。すると、驚くべきことに、売上は劇的に向上したのだ。遥は感謝する一方で、夫が遺した店が、自分の手を離れていくことに、言いようのない不安を感じていた。「遥さんは、もう囲碁だけしていればいいんだよ」小野寺は、遥の肩を優しく抱いた。「私が全部守ってあげるから。君の繊細な心は、この世の荒波には耐えられないだろう。私が、君だけのために、安全な場所を用意してあげる」彼は、遥を囲碁の世界に、そして彼自身の世界に、ますます深く引き込もうとしていた。
改装が終わり、盛況を祝う会が開かれた。賑やかな会場の片隅で、小野寺は遥に、店の経営権を正式に譲り受けたい、そして、遥は「妻」として、彼のそばにいてほしい、と告げた。その言葉は、遥の耳には、まるで異国の言葉のように響いた。混乱し、その場から逃げるように飛び出した遥は、自宅へと急いだ。しかし、暗い夜道で、恵が彼女の腕を掴んだ。
「遥ちゃん、待って!」恵は、切羽詰まった表情で言った。「小野寺さん、あなただけじゃなかったのよ。他にも、同じような『生徒』が何人かいた。みんな、彼の店や人生に巧みに取り入って、最終的には彼に支配されていた。あの男、本当に吐き気がするほど嫌い!」恵は、彼女が用意した資料を遥に突きつけた。そこには、小野寺が過去に複数の女性に近づき、経済的、精神的に彼女たちを支配していた数々の証拠が、冷酷な事実として記されていた。
遥は、小野寺が彼女の孤独と依存心につけ込み、すべてを支配しようとしていたのだと悟った。彼女が心の支えにしていた囲碁の師匠は、最も恐ろしい支配者だったのだ。数日後、遥は小野寺に告げた。「もう、あなたの碁は打ちません」二度と、囲碁サロンの扉を開けることはなかった。
パンケーキ店は、彼女の手で、かつての不器用ながらも温かい場所へと戻っていく。しかし、小野寺との記憶、そして人への信頼というものが、どれほど脆く、容易く汚されるものかという冷たい真実が、遥の心に深く刻み込まれた。彼女は、ふと近所を散歩する際、どこかで見かけたパンケーキの看板に目を奪われるが、すぐに顔を背ける。あの甘い香りが、今や悍ましい記憶と重なってしまうからだ。彼女は、もう二度と、誰かを心から信じることはできないだろう。盤上の親友が、最悪の敵だったという皮肉だけが、彼女の心を蝕み続ける。