総務部、津波とケーキと塩の味
「おい、佐藤。明日、田中さん、誕生日だろ?」「え、ええ、部長! そうでした! すっかり忘れておりました…!」「まったく、君は心配性なくせに、肝心なところを抜かすなよな」「いえ、あの、総務部では、毎年、ささやかながらケーキを用意するのが…」「ああ、そうだったか。よし、君、予約しておけ」「は、はい!」「……って、あれ?」「どうした?」「予約… 予約票がない…! いや、そもそも、予約しておりませんでした!」「……は?」「まずい、これは、まずい! 田中さんの誕生日を、ケーキなしで祝うなんて、我々総務部の面目は丸潰れです! このビルに住み着いている、あの、えーっと、なんだっけ、あの、ゴキブリだって、もっとマシな誕生日を用意してくれるぞ!」
佐藤は、普段の几帳面さが仇となったかのように、パニックの海に沈んでいた。額には玉のような汗が浮かび、心臓はドラム缶を叩くようなリズムで鳴り響く。「うわー、どうしよう、どうしよう!」
「まあまあ、佐藤。落ち着けって。別にケーキがなくても、俺は全然平気だから」「田中さん! それは、それは、田中さんご自身の誕生日だから、そうおっしゃるんでしょう! 他の社員に顔向けできませんよ!」「いやいや、そんなこと気にするなよ。宇宙の法則が乱れてるんじゃね? 俺がケーキを欲しがらないっていう、奇跡的な事象が起きてるんだよ」「奇跡じゃなくて、単なる予約漏れですから!」「そうそう、そういう細かいことはどうでもいいんだよ。昔、うちの部署で手作りケーキ作ったことあったな。あの頃は楽しかった…」「手作り!?」「うん。まあ、味は保証できないけどね」
佐藤の耳に「手作り」という言葉だけが、キラキラと輝く宝石のように飛び込んできた。「手作り! そうか! 田中さんのために、俺が手作りするしかないんだ!」心配性な佐藤は、田中を喜ばせたい一心で、突拍子もない決意を固めた。田中さんは、そんな佐藤の暴走に気づいているのかいないのか、窓の外をぼんやり眺めている。
「よし、材料を買いに行ってきます!」
佐藤は、給湯室にあったタオルで顔を拭くと、意気揚々とオフィスを飛び出した。目指すは、近所のスーパー。しかし、佐藤の不器用さは、その道程でも遺憾なく発揮される。まず、卵を一つ、派手に割って床にぶちまけ、靴をベタベタにされた。次に、小麦粉の袋の口をしっかり閉じ忘れたままカバンに放り込み、カバンの中は、まるで雪国のような有様になった。オフィスに戻る頃には、佐藤自身も、服も、カバンも、真っ白に。「はぁ…はぁ…なんとか、材料は揃いました…」
その頃、窓の外は、急速に暗雲が立ち込めていた。遠くで、サイレンの音が、けたたましく鳴り響き始める。「なんだ? 急に空が暗くなったな…」田中が呟く。テレビからは、緊急速報が流れた。「緊急速報です。午前9時30分現在、〇〇海岸沿いの地域に津波警報が発令されました。沿岸部にお住まいの方は、直ちに高台へ避難してください」
「津波!? この内陸のオフィスビルまで来るわけないだろう?」佐藤は、ケーキ作りに集中しすぎて、ニュースのことも、外の騒ぎのことも、ほとんど耳に入っていなかった。彼の頭の中は、ただひたすらに、田中さんのための「手作りケーキ」でいっぱいだった。
ボロボロになりながらも、佐藤はなんとかケーキを完成させた。形は、まあ、アレだ。歪んでいるし、焼き色もムラだらけ。でも、佐藤の愛情はたっぷり詰まっている(はずだ)。「田中さん! できました! これが、俺からの、ささやかな、プレゼントです!」
「お、おお! 佐藤、よくやったな! これでこそ、総務部だ!」鈴木部長も、偶然通りかかったのか、労いの言葉をかけてくれた。田中さんは、感無量といった表情で、佐藤が作ったケーキを眺めている。「ありがとう、佐藤。まさか、こんなに本格的なケーキが食べられるなんて、思ってもみなかったよ」
津波警報は、幸いにもすぐに解除された。人々は、束の間の不安から解放され、日常へと戻りつつあった。佐藤は、満足げに微笑みながら、田中さんと共にケーキを切り分ける。「さあ、召し上がれ!」
田中さんが、フォークでケーキを一口。「うーん、ん? なんか、ちょっと、しょっぱいね」
「えっ?」佐藤は、慌てて自分のケーキを一口。「うわっ! しょっぱい! 塩だ! 砂糖と間違えて、塩を大量に…!」佐藤は、顔面蒼白になった。田中さんは、そんな佐藤を見て、くすくすと笑い出した。「まあ、これもまた、ある意味、記憶に残る誕生日ケーキだよ。ありがとう、佐藤」
二人の様子を見ていた鈴木部長が、ふと窓の外を見つめ、呟いた。「いや、それにしても、さっきの津波、思ったよりすごかったな。このビル、海から結構近いんだったっけ? いやー、危なかったな。もしあれがもっと内陸まで来てたら、このケーキの塩分濃度じゃ、脱水症状で大変だっただろうな。」