楕円軌道の朝食と、ジャムを巡る同盟
火曜日の朝、ダイニングキッチンの空気は、気圧ではなく「機嫌」という不確かな物理法則によって支配されていた。
事の発端は、苺の死骸――つまりジャム――を巡る、些細で重大な定義の不一致だった。 父は、銀色のスプーンですくい上げた赤い半固形物を、まるで実験室の標本でも扱うかのような手つきで光にかざした。そして、世界の理(ことわり)を決定づける恒星のように、重く、絶対的な声で宣言した。
「いいか。ジャムは容器に合わせて形を変える。その性質は流体であり、故に、これは飲み物である」
その瞬間、私を床に繋ぎ止めていた「常識」という名の引力が、音を立てて崩壊した。 父が「そうだ」と言えば、白いカラスも黒く染まる。その強烈な定義の歪みに、私の脆弱な自我は耐えきれなかった。「塗るもの」という概念が剥がれ落ち、「飲むもの」という定義も受け入れられず、意味の飽和を起こした私は、質量を失った風船のようにふわりと浮き上がった。
「あ」
私のつま先がフローリングから離れる。スリッパが片方だけ、重力を残して床に落ちた。私はなすすべもなく上昇し、天井の隅、埃の粒子がダンスを踊る成層圏へと追いやられた。
父は新聞を広げた。その動作は、太陽フレアのように威圧的だった。彼は私の浮遊を見ても眉一つ動かさない。おそらく、この現象を「反抗期特有の上昇気流」あるいは「思春期性の低気圧」として処理したのだ。彼の辞書に「娘が物理的に浮く」という項目はない。だから、私は彼の視界において、単に「高い位置に座っている」だけに過ぎない存在へと変換される。
私は天井の石膏ボードに指先を触れ、それを支点にしてダイニングテーブルの周りを公転し始めた。 ここから見下ろす食卓は、まるでひとつの宇宙だった。遥か眼下、焦げ目のついたトーストは乾いた茶色い大陸に見え、コーヒーカップから立ち昇る湯気は、未開の惑星を覆う雲海のように渦巻いている。父はその中心で、新聞という名の星図を広げ、独裁的な重力を放ち続けている。
「……お父さん、私、もうすぐ換気扇に吸い込まれそうなんだけど」
私の声は、気圧の差のせいで、遠いラジオのノイズのように響いた。父はコーヒーを啜り、活字の海に沈没している。返事はない。沈黙すらも、彼は質量のある物体としてテーブルに置くのだ。
公転軌道が乱れ始めた。換気扇が唸りを上げている。あそこから屋外へ吸い出されてしまえば、私は「家」という文脈を失い、意味のない記号として大気中に拡散してしまうだろう。自我が希釈され、誰のものでもない雨になって降り注ぐのは御免だった。
私は助けを求めて視線を巡らせた。そして、椅子の上で液状化している黒い塊を見つけた。 猫のミロだ。 彼は今、固体と液体の相転移の真っ最中で、クッションの形状に合わせてだらりと溶け出していた。彼だけが、この家の厳格な物理法則から逸脱した特異点だ。ミロの欠伸は、あらゆる高尚な議論を無効化する力を持っている。
私は皿の上に残されたベーコンの映像を、テレパシーのようにミロへ送信した。カリカリに焼かれた、塩気と脂質の結晶。それは、この浮ついた世界で最も原始的な賄賂だった。
――助けてくれたら、あのベーコンをあげる。
ミロの金色の瞳が、天井の私を捉えた。契約は成立した。 彼はゆっくりと身を起こし、液体の状態から固体の「猫」へと凝縮すると、喉の奥で低周波の振動音を鳴らした。
「ゴロゴロ、ゴロゴロ……」
その音は、空間の粘度を調整するダイヤルを回す音だった。世界が、急速に甘く、重くなっていく。 空気が透明なシロップへと変質した。窒素と酸素の分子が互いに手を繋ぎ、ねっとりとした抵抗を持ち始める。それは物理的な重さというよりは、気怠い午後の微睡みのような、抗いがたい粘着質だった。
私の体感速度が鈍る。換気扇の吸引力よりも、部屋そのものが持つ「滞留しようとする意志」が勝ったのだ。私は琥珀の中に閉じ込められた昆虫のように、ゆっくりと、極めてゆっくりと降下を始めた。
1センチ、また1センチ。沈殿していく。
やがて、私の足裏は、水飴のような空気を押しのけて、再び椅子の座面に着地した。ドスン、という衝撃はない。蜂蜜の瓶の底に沈むような、静かで密着度の高い着席だった。
父は新聞を畳んだ。彼もまた、この急激な粘度の上昇に気づいているはずだが、それを口には出さない。彼はただ、スプーンを手に取り、瓶の中の「飲み物」であるはずのジャムをすくい上げた。
そして、それをトーストという「大陸」に、丁寧に塗り広げ始めた。
矛盾していた。飲み物ならば、コップに注ぐべきだ。しかし父は、その赤い流体を、ナイフを使ってパンに定着させている。論理は破綻している。けれど、そのねっとりとした輝きは美しく、そして何より美味しそうだった。
「……食べるか」
父が短く言った。それは疑問形ではなく、許可証の発行だった。
「うん」
私は答え、自分のトーストに手を伸ばした。指先に触れるパンの感触は、ザラザラとしていて、確かな現実の手触りがあった。
私たちは、分かり合えないまま、同じ粘度の中で暮らしている。父の定義する世界と、私の感じる世界は、決して交わらない平行線だ。けれど、ミロが作ったこのシロップのような空気の中では、その矛盾さえも甘くコーティングされ、一つの食卓に同居することを許されている。
サクッ、とトーストを齧る音だけが響く。 私の体はまだ少し浮ついている。気を抜けば、また天井まで舞い上がってしまいそうだ。けれど、胃の中に落ちたジャムの、あの甘ったるい重さだけが、私をこのダイニングキッチンの椅子に、辛うじて繋ぎ止めている。