麦茶の異臭
夏の日差しがアスファルトを焼く。佐藤陽子は、夫・聡の故郷であるこの地方都市で、かつてのジャーナリストとしての感覚を鈍らせていた。古びた一軒家、静寂、そして、近隣住民たちの囁き。その中心にいたのは、田中恵子という名の女性だった。一人暮らし、奇妙な習慣、そして「魔女」というレッテル。陽子は、その漠然とした噂の輪郭を、淡々と観察し始めた。
恵子への風当たりは、年を追うごとに強まっていた。庭に置かれた意味不明な置物。夜半に響く、不気味な音。ゴミ出しの遅れ。それら全てが、恵子という存在に収束され、糾弾の的となった。夫・聡は町内会長という立場にあった。彼は、近隣住民の圧力に抗うでもなく、むしろそれを宥め、町全体の調和という名の沈黙を強いる側にいた。「町のためだ」という言葉は、彼の保身と、事なかれ主義を隠すための盾だった。陽子のジャーナリストとしての直感が、微かな異音を捉えていたが、聡はそれを「些細なこと」として退けた。
ある日、恵子の家の庭から、耐え難い異臭が漂ってきた。近隣住民は、それを「魔女の悪意」と断じ、騒ぎ立てた。聡は町内会議で、恵子を地域から排除すべきだと提案した。陽子は、その異臭の原因を独自に調査する決意を固めた。キッチンから漏れ聞こえる、不審な機械音。そして、恵子が毎日、驚くほどの量の麦茶を仕込んでいるという事実。それは、陽子の仮説を深めた。麦茶の製造過程で発生する副産物。それが、あの異臭の原因ではないか。
真夜中、陽子は恵子の家のキッチンに忍び込んだ。そこには、異臭の元凶である、大量の麦茶の副産物が積み上げられていた。そして、その傍らには、恵子が「魔女」と呼ばれながらも、この地域のために密かに続けていた行為の痕跡があった。住民たちが無関心に放置するゴミ、そこから発生する悪臭。恵子は、その全てを、麦茶製造の副産物を用いて分解、中和していたのだ。地域環境を、住民たちの無関心から守ろうとしていた。偏見と噂によって「魔女」というレッテルを貼られることを、彼女は静かに受け入れていた。それは、社会の歪みを一身に背負う、孤独な抵抗だった。
陽子は、調査結果を聡に突きつけた。「これは、あなたが町のために守ろうとしていた、秩序なのでしょうか」。聡は、表情一つ変えなかった。「我々は、見ないふりをすることで、この町に平和を保っているのだ。知らなかったこと、見て見ぬふりをすること。それが、この町の「秩序」であり、私の「保身」に繋がる」。陽子は、恵子という「魔女」を排除しようとする住民たちの姿が、歴史上の魔女狩りと何ら変わらない、集団的狂気と無関心が生み出す「構造悪」であると確信した。彼女は、この事実を記事にしようとした。しかし、夫からの圧力、近隣住民たちの冷たい視線、そして何よりも「どうせ何も変わらない」という、社会そのものの沈黙が、彼女のジャーナリストとしての魂を蝕んだ。記事化を断念する。しかし、彼女は諦めきれない「事実」を、静かに記録し続ける。それは、恵子への共感ではなく、あくまで「構造悪」の証拠として、冷徹に観察し続ける行為だった。陽子は、静かに麦茶を注ぐ恵子の姿を、ただ一人、記録し続ける。それは、告発のための記録であり、沈黙する社会への、静かなる訴えだった。