飛行機雲の下のサイン

夏の日差しが、窓ガラス越しに部屋の床へ熱い絨毯を敷き詰めていた。七海陽菜は、宝物である漫画「ロマンティック・フライト」シリーズの最終巻を、指先でそっと撫でた。あと一冊。それだけが、どうしても手に入らない。ネットの海をいくら泳いでも、見つかるのは古びた表紙の画像ばかり。諦めかけた時、父がぽつりと言った。「昔ながらの古本屋なら、思わぬ掘り出し物があるかもしれんぞ」。その言葉に背中を押され、陽菜は市内の地図を広げた。汗ばんだ指先が、地図の上を彷徨う。

偶然、ふらりと立ち寄った古本屋は、埃っぽい匂いと、インクの温かい香りが混じり合う、懐かしい空気に満ちていた。背表紙を一つ一つ追っていく。その時、指先にひんやりとした紙の感触が触れた。あった。最終巻。そして、その隣に並んでいたのは、見覚えのある名前だった。橘蓮。サッカー部のエース。クールで、いつもどこか遠くを見つめているような瞳。まさか、彼もこの漫画のファンだったなんて。陽菜の頬に、じんわりと熱が集まるのが分かった。店主との会話で、蓮がこの漫画を熱心に探していたことを知り、陽菜はさらに戸惑いを隠せなかった。まるで、見えない糸に引かれるように、蓮という存在が陽菜の心を占め始めていた。

学校が始まっても、陽菜の視線は無意識のうちに蓮を追っていた。授業中、ふと顔を上げると、教室のざわめきが遠のき、蓮の涼やかな瞳と目が合った。ほんの一瞬。けれど、陽菜の肌は粟立ち、心臓が早鐘を打つ音が、耳元で響くように感じられた。あの、ほんの僅かな動揺。蓮の瞳の奥に宿った、一瞬の戸惑い。その気配に触れただけで、陽菜の体温は急上昇した。廊下ですれ違うたび、ふとした瞬間に視線が絡む。そのたびに、陽菜の頬は夕焼けのように赤く染まった。クールな仮面の下に、蓮はどんな顔を隠しているのだろう。

ある日の放課後、陽菜は図書館で、蓮が「ロマンティック・フライト」シリーズを借りているのを目撃した。心臓が、どくん、と大きく跳ねた。意を決して、震える声で話しかけた。「あの、橘くん。その…漫画、私も好きなんです」。蓮は、驚いたように目を見開いた。けれど、陽菜の熱意に、ほんの少しだけ、表情が和らいだ気がした。それから、二人の間には、漫画を介した、ぎこちない会話が生まれた。「主人公の気持ち、すごく分かるんだ」。蓮が呟いた時、陽菜は、彼が自分を重ねているのだと悟った。陽菜も、勇気を出して「私も、勇気をもらってます」と、内気な自分について少しだけ話した。互いの日常に、相手の温かい気配が、そっと差し込み始めていた。

夏休み明け。蓮が、海外のチームから誘いを受け、渡航することが決まったと知らされた。出発は数日後。陽菜の胸に、冷たいものが広がった。もっと、話したかった。もっと、知りたかった。蓮もまた、陽菜にそれを伝えることができず、切ない表情を浮かべていた。陽菜は、蓮が以前「この漫画みたいに、いつか遠くへ行けたらいいな」と呟いていたのを思い出した。彼の夢と、その裏にある不安。陽菜は、蓮に、せめて「またね」と、伝えたいと強く思った。言葉にならない想いが、指先から溢れ出しそうだった。

出発当日。陽菜は、胸に「ロマンティック・フライト」の最終巻を抱え、空港にいた。偶然、蓮も家族に見送りに来ていたのだ。遠くからその姿を見つけた瞬間、陽菜の手は、ぎゅっと漫画を握りしめた。指先が、紙の温もりを確かめる。蓮が、こちらに気づき、ゆっくりと歩み寄ってくる。二人の距離が縮まるにつれ、陽菜の顔は、夕焼けよりも赤く染まっていくのが分かった。蓮が、陽菜の目の前で立ち止まる。少しだけ、微笑んだ。「あの漫画、最終巻、読んだ?」陽菜は、こくり、と力強く頷いた。蓮の視線が、陽菜の手の中の漫画に注がれる。その表情が、さらに和らいだ。「また、いつか、空の上で会おう」。普段よりずっと、優しい声だった。陽菜は、蓮の言葉と、その温かい視線、そして触れるか触れないかの距離に、胸がいっぱいになった。見上げれば、空には、真っ白な飛行機雲が、希望の軌跡を描いていた。その温もりは、陽菜の指先から、じんわりと全身に広がっていった。

この記事をシェアする
このサイトについて