潮風の議事録
潮風が、古びた町役場の窓ガラスをかすかに揺らしていた。佐伯律子は、煮詰まった資料の山から顔を上げ、溜息を落とす。町議会に提出される「新しい観光振興策」の議案。その数字の羅列は、まるで遠い国の言葉のように、律子の現実感から乖離していた。町の活性化、住民の笑顔。そんな言葉が、空虚な響きとなって、彼女の胸に小さな澱のように沈んでいく。この計画が、本当にこの町の静かな苦悩に寄り添えるのだろうか。律子の指先は、冷たい紙の上で、微かに震えていた。
議事録の作成は、律子の日課だった。そこで彼女は、古川議員の言葉に、いつも小さな違和感を覚えていた。「町民の皆様の喜びのために」。その言葉に、熱意は感じられなかった。まるで、誰かが用意した脚本を読んでいるかのようだ。律子は、数日前、近所の漁師の妻が、肩を落としていた姿を思い出した。長引く不漁で、子供の学用品も買えないと、彼女は静かに呟いていた。町議会が、本当に、あの妻の、あの子供たちの声を聞いているのだろうか。疑念は、静かに、しかし確実に、律子の心を蝕んでいった。
ある日の夕刻。役場の裏口から、律子は偶然、古川議員の姿を見た。地元の建設業者の男と、楽しげに談笑している。その声は、役場の壁越しにも、はっきりと聞こえてきた。「この辺りの土地を押さえておけば、観光客も増えるし、上も黙ってないだろう」――観光振興策とは名ばかりの、土地開発の話。古川議員の口にする「喜び」という言葉が、単なる政治的な道具に過ぎないことを、律子は確信した。その瞬間、彼女の心に、重いものがのしかかった。この事実を、このまま議事録に残していいのだろうか。彼女は、静かに震える指先で、資料を握りしめた。それは、彼女自身の、静かな抵抗の始まりだった。
町議会当日。古川議員は、いつものように、熱弁を振るっていた。「…この振興策は、町民一人ひとりの、輝かしい未来と、満ち溢れる喜びをもたらすでしょう!」その言葉に、律子は、乾いた笑いを感じた。そして、意を決して、挙手をした。「あの…古川議員。資料の〇ページ、〇行目ですが、予算執行の根拠となるデータに、一部、誤りがあるかと思われます。」あくまで事務的なミス、という体裁で。古川議員は、眉をひそめ、律子を睨みつけた。「佐伯君、今はそういった些末なことを議論している場合ではない。」
その時、静かに、しかし力強く、先輩の浜田さんが口を開いた。「古川議員。議事録には、正確な記録が不可欠です。佐伯さんの指摘は、当然のことかと。」浜田さんの言葉に、律子の背筋が伸びた。その瞬間、傍聴席にいた数人の漁師たちが、静かに立ち上がった。先ほどの漁師の妻も、そこにいた。「あんたら、俺たちの声なんか聞いてねえんだろ!」一人の漁師が、絞り出すような声で叫んだ。その声は、静まり返った議場に、重く響いた。古川議員の顔から、血の気が引いた。言葉に詰まり、虚空を見つめている。彼の「輝かしい未来」も、「満ち溢れる喜び」も、その場には、もう存在しなかった。
結局、観光振興策の議案は、一旦保留となった。議会は散会し、律子は窓の外に広がる、灰色の海を眺めていた。議事録のページには、表向きは変わらない、建前の言葉が並ぶだろう。しかし、漁師たちの声が、あの議場に届いたという事実は、否定できない。古川議員の「喜び」という言葉の裏にある、本当の感情に、律子はまだ触れていない。それでも、潮風が運んできた、ほんの少しの真実の重みを、彼女は静かに感じていた。議事録の余白に、律子は、誰にも見えない、小さな、しかし確かな希望の印を書き加える。それは、彼女だけの、「喜び」の記録だった。ふと、浜田さんの「大丈夫、きっと道は開けるわよ」という言葉が、潮騒のように、律子の耳に心地よく響いた。彼女の唇に、微かな、しかし確かな笑みが浮かんだ。