消えた布団と彫刻家の涙

「おい!誰だ!俺の布団を盗んだのは!」

春の陽気なんて、どこ吹く風。寂れた地方都市のアパートの一室から、老人の怒声が響き渡った。壁に掛けた時計は、まだ午前九時を指したばかりだというのに、田中一郎、齢七十にして、彼は激昂していた。

「一郎さん!どうしたんですか!」

心配そうにドアをノックしたのは、隣に住む佐藤花子だ。世話焼きで、少々お節介な、しかし根は心優しい女性である。慌てて駆けつけた花子が見たのは、一郎が部屋の中を怒り狂ったように闊歩し、まるで不可視の敵にでも斬りかかるかのように、部屋の隅にあった空き缶を洗濯物干し竿で突きまくっている光景だった。布団なんて、どこにも見当たらない。

「花子さん、どうやら俺の布団が、消えちまったらしいんだよ!」

一郎は、荒い息をつきながら、洗濯物干し竿を振り回すのをやめた。その顔には、怒りとも、途方もない困惑ともつかない表情が浮かんでいる。

「消えたって…一郎さん、まさか、洗濯物でも干したんですか?でも、こんなに晴れてるのに、部屋干しなんて…」

花子は、状況が全く理解できず、首を傾げた。一郎は、胡散臭い笑みを浮かべると、部屋の隅を指差した。

「いや、違うんだよ、花子さん。今朝、目が覚めたら、綺麗さっぱり、無くなっていたんだ。文字通り、跡形もなく!」

一郎が指差す場所には、まるで誰かが布団を剥ぎ取ったかのような、奇妙な「削り跡」が残っていた。それは、まるで、鋭利な刃物で彫刻を削り取ったかのようにも見えた。

「それで、俺は考えたんだ。これは、誰かが俺の布団に嫉妬したに違いない、と。そうだろう?この世界に一つしかない、世界で一番温かい、俺の宝物なんだからな!」

一郎が熱弁を振るう。その「宝物」とは、かつて彼が愛した女性が、心を込めて編んでくれた、世界に一つだけの特別な布団のことだった。だが、一郎は、その布団が「消えた」理由を、嫉妬だと断定する。花子は、一郎の突拍子もない話に、鼻白みそうになりながらも、彼の真剣な様子に押され、観念した。

「…嫉妬、ですか。でも、誰が、一郎さんの布団に嫉妬なんて…」

「そいつは、俺の布団の温もりを、羨んだんだ!俺だけが、あいつの温もりを感じられることを、妬んだんだ!この、彫刻のような跡を見ろ!これが、嫉妬心の強さを物語っている!」

一郎は、再び洗濯物干し竿を手に取り、まるで犯人の気配でも探るかのように、部屋の中を無意味に突き始めた。花子は、洗濯物でも干し忘れたのか、それとも、単に認知症か…とも思ったが、一郎の剣幕に、それ以上何も言えなかった。結局、花子は、一郎と共に、部屋の中をくまなく探し回る羽目になった。

「この跡は…まるで、彫刻が削り取られたみたい…」

花子は、一郎が指差した「削り跡」をまじまじと見つめた。一郎は、その跡から、犯人の「嫉妬心」の強さを読み取れると熱弁するが、花子には全く理解できなかった。一郎は、その布団にまつわる過去の出来事を、まるで布団泥棒の話に紛れ込ませるかのように、断片的に語り始めた。

「あれは…もう、ずいぶんと昔の話だ…才能に溺れていた、あの頃の俺は…」

一郎の言葉は、まるで、かつて愛した女性との切ない別れと、その女性への複雑な想いを、荒唐無稽な布団泥棒の話に織り交ぜているかのようだった。

花子は、一郎の奇妙な言動の裏に、隠された悲しみを感じ取っていた。彼が「嫉妬心」と呼んでいたものは、実は、彼自身が抱えていた、愛する女性を失ったことへの激しい後悔と、彼女に伝えられなかった「ありがとう」という感謝の気持ちだったのだ。一郎は、かつて才能に溺れ、彼女を傷つけ、そして失ってしまった過去を、まるで彫刻の腕前で表現しようとしていた。布団は、彼女の温もりと愛情の象徴であり、それを失ったことで、彼は初めて自分の過ちに気づいたのだ。そして、その「嫉妬心」という言葉で、本当は彼女を失った悲しみと、自分への怒りを表現していたのだ。

「一郎さん…」

花子は、一郎の部屋の片隅に置かれた、埃をかぶった未完成の彫刻に気づいた。それは、女性の横顔を模した、繊細で美しい彫刻だった。

一郎は、その彫刻を完成させるために、彼女の温もりを思い出しながら、布団にくるまって寝ていたのだ。しかし、ある夜、彼女への罪悪感と後悔が募り、布団を無意識に「彫刻」のように削り取ってしまった。そして、朝になって「消えた」と認識したのだった。

花子は、一郎が必死に彫り続けようとしていた、彼女への「ありがとう」という言葉を、そっと彼の耳元で囁いた。

一郎は、初めてその言葉を受け止め、彫刻に手を伸ばし、静かに涙を流した。

布団は、彼の部屋のクローゼットの奥に、彼女が編んでくれた毛布にくるまった状態で、静かにたたまれていた。それは、失われた愛と、それでも残る温もり、そして今、ようやく癒え始めた心の傷跡だった。

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