静寂の握り

庭の花々が、黒ずんだ葉を垂れ、萎んだ蕾を静かに抱えている。毎朝、佐伯浩一は、亡き妻・陽子の遺したこの庭に水を撒いた。妻が愛したクラシック音楽が、いつものように静かに流れている。その傍らで、浩一は、妻の好きだった寿司を一人で握っていた。それは、悲しみの淵から彼を引き留める、儀式のようなものだった。

ある夜、マグロの赤身を捌きながら、冷蔵庫から微かな異音が聞こえた。音楽の音色に掻き消されそうなほど小さく、しかし、確かに、日常の音とは異なる、異質な響き。扉を開けると、ひやりとした空気が肌を撫で、普段よりも一層冷たい風が吹き付けた。中身を確認しても、特に異常はない。だが、その日から、浩一は時折、寿司のネタに奇妙な「冷たさ」を感じるようになった。それは、氷のように鋭い冷たさではなく、もっと底冷えするような、骨の髄まで染み渡るような、静かな冷たさだった。

園芸にも異変が忍び寄っていた。花々は、日ごとに活力を失い、葉は黒ずみ、蕾は開くことなく萎んでいく。庭の土からは、以前は嗅いだことのない、生臭く、それでいてどこか懐かしいような、独特の匂いが漂い始めた。浩一は、この匂いが、寿司のネタから感じる冷たさと、繋がっているのではないかと、漠然と疑い始めた。

庭に流す音楽も、次第に不穏な響きを帯びてきた。美しいクラシック音楽の旋律の中に、かすかな、しかし確かな「囁き」が混じるようになった。それは、亡き妻の声のようでもあり、あるいは、全く別の、未知の存在の声のようでもあった。浩一は、音量を上げた。囁きを掻き消そうと、必死に。しかし、それはかえって囁きを際立たせるだけだった。囁きは、寿司の冷たさ、庭の異臭と共に、彼の日常を静かに侵食していく。それは、妻を失って以来、心の奥底に押し込めていた、言葉にならない孤独や、叫びのようでもあった。

寿司を握る指先が、時折、意思を持ったかのように冷たい感触を帯びた。ネタの表面に、微細な、しかし明らかに「生きている」かのような脈動を感じるようになった。視覚的には捉えられない。だが、浩一の五感は、それを確かに捉えていた。彼は、寿司を食べることをやめられなかった。それは、妻との唯一の繋がりであり、また、この得体の知れない恐怖の正体を知りたいという、歪んだ好奇心からだった。

ある夜、いつものように寿司を握っていた浩一は、ネタの中に、微かに光る「何か」を見た。それは、魚の目玉のようでもあり、あるいは、もっと小さく、無数の「瞳」のようにも見えた。彼は、その「瞳」が自分を見つめているように感じ、指先から力が抜けた。寿司は、まな板の上に崩れ落ちた。しかし、その崩れ落ちた寿司からは、先ほどまで感じていた冷たさも、生臭い匂いも消えていた。ただ、静寂だけが部屋を満たす。音楽も、囁きも、冷蔵庫の音も、全てが消え失せている。

浩一は、崩れ落ちた寿司を見つめながら、静かに微笑んだ。恐怖は消え去った。しかし、それは解放されたからではない。恐怖の根源は、彼の日常に、寿司の握り方、庭の花の育て方、そして流す音楽の選び方の中に、すでに溶け込んでいたのだ。これから彼は、この「静寂の握り」を、妻の遺した庭の片隅に、そっと植え付けるだろう。そして、その奇妙な「実り」を、またいつか、一人で味わうことになる。部屋の暗がりからは、かすかな「囁き」が、今もなお、漏れ聞こえてくるようだった。

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