松と悲鳴

佐伯浩一の潔癖症は、もはや病と呼ぶべき域に達していた。特にトイレ。あの、人間の最も生理的な部分が露呈する空間への執着は、妻・恵子の精神を蝕むには十分すぎるほどだった。恵子は、夫の機嫌を損ねぬよう、言われるがままに、まるで聖域を清める巫女のように、便器を磨き、床を拭き、換気扇の埃を払った。しかし、どんなに清掃を徹底しても、近隣住民、とりわけあの田中家から漂ってくる、陽気と軽薄さが入り混じった悪臭には、どうにも耐え難いものがあった。

ある晴れた日の午後、浩一は庭の手入れをしていた。ふと目をやった先、自宅の敷地と隣家を隔てる低い生垣の向こう。一本の松の木。その無遠慮な緑が、ほんの僅か、ほんの数センチだけ、自身の領地へと侵食しているのを発見した。その光景は、彼の強迫観念を、まるで虫眼鏡で覗いたかのように拡大させ、生理的な嫌悪感と、この世の不条理に対する激しい怒りと不安を掻き立てた。それは、彼の精神の破綻を予感させる、耐え難い「懸念」として、じわりじわりと彼の心を蝕み始めた。

「あの松の枝が…私の庭に…」

浩一は、その些細な侵食を、まるで悪性の腫瘍のように見つめていた。耐え難い。耐え難いのだ。しかし、直接田中家に乗り込み、あの馴れ馴れしい男と対峙することに、彼は本能的な恐怖を感じていた。そこで彼は、妻・恵子に命じた。

「恵子、田中さんにお願いして、あの松の枝を切ってもらってくれ。私の敷地にはみ出しているのは、許しがたい。」

恵子は、夫の神経質な声色に怯えながら、しかし逆らうこともできず、田中宅へと向かった。彼女の胸には、田中家の眩しいほどの陽気さへの羨望と、夫への無力感、そしてそれらが混ざり合った歪んだ願望が、静かに渦巻いていた。

田中宅のインターホンを鳴らすと、すぐにドアが開いた。相変わらずの、屈託のない笑顔。恵子は、蚊の鳴くような声で、松の枝の件を伝えた。

「あら、松の枝?そんなこと、全然気にしないでちょうだい。実はお隣の佐伯さんのところのトイレ、最近異臭がひどいって噂になってるわよ。まあ、うちの松が邪魔なら、いくらでも切ってあげる。その代わり、ちょっとお願いがあるの。うちのトイレ、調子が悪くてさ、うちで使わせてもらえるかしら?まさか、何かヤバいものでも流したんじゃないでしょうね?」

田中は、恵子の顔を覗き込み、含みを持たせた笑みを浮かべた。その目には、獲物を見つけた獣のような、計算された悪意が宿っていた。恵子の顔から血の気が引いた。田中はさらに、彼女の弱みにつけ込むように、言葉を続けた。

「まあ、心配いらないわよ。うちのトイレも、結構色々『受け止めて』くれるからさ。ふふ。」

恵子は、顔面蒼白となり、ただ絶望的な表情で頷くことしかできなかった。

数日後、浩一は自宅のトイレから、微かに、しかし確実に、異臭がするのに気づいた。彼は恵子に詰め寄った。

「おい、恵子。このトイレ、なんだか臭うぞ。原因は何だ?」

潔癖症の浩一にとって、それは耐え難い冒涜だった。原因が特定されるまで、彼はトイレの使用を一切拒否した。一方、田中家は、浩一宅のトイレを「借りる」ようになり、その異臭は日増しに強まっていった。浩一の心には、疑念が渦巻き始めた。隣家の人間が、自分の聖域を汚し、そしてその異臭の原因が、恵子が密かに流していた「何か」ではないか、という耐え難い想像。田中家への憎悪、恵子への怒り、そして自身の潔癖症が、醜悪な衝動となって彼を突き動かした。彼は、自らの手で、トイレを破壊し始めた。陶器が砕ける音、汚物が飛び散る音。そして、破壊した汚物を、憎悪を込めて、隣家の敷地へと投げ捨てた。

「これで汚いもんは全部お前らのせいだ!」

罵詈雑言を吐き捨てる浩一。恵子は、夫の狂気と、田中家の無邪気な悪意、そして自宅のトイレから漂う、未知の異臭に挟まれ、ただ静かに泣き崩れた。松の枝は、気まぐれに風に揺れていた。まるで、人間の不幸を嘲笑うかのように。

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