初詣、あるいは弟に捧ぐ怨念

「あけましておめでとう、楓」 「…蓮くん。あけましておめでとう」

新年の初詣。熱気を帯びた参道は、色とりどりの振袖や羽織袴に彩られ、人々の笑顔が溢れていた。その喧騒とは対照的に、橘楓の心は静かに波立っていた。隣を歩く佐伯蓮の、穏やかな横顔を見つめる。

「そういえば、楓」

蓮の声に、楓はわずかに身構えた。

「悠が元気だったら、今頃どんな子になってたかな」

――悠。五つ下の弟。三年前、突然、楓の世界から奪っていった、あの事故。

「さあ…」

楓は、精一杯平静を装って答えた。けれど、胸の奥底で、小さな、けれど確かな波風が立った。まるで、静かな湖面に投げ込まれた小石のように。蓮は、楓の僅かな動揺に気づいているのか、ただ静かに微笑んでいる。

「おみくじ、引こうよ」 「うん」

本殿へと続く長い階段。その手前にある、おみくじ掛けの前で立ち止まる。楓が、おみくじの紐に手を伸ばした、その時。

――ひゅっ。

冷たい風が、楓の指先を撫でた。いや、それは風ではなかった。まるで、誰かの冷たい手のひらが、そっと触れたような。

『お姉ちゃん、僕のこと、忘れないでね』

――悠の声?

耳元で、幼い頃の悠が、いつもそう言って甘えてきた声がした。楓は、心臓が跳ね上がるのを感じた。思わず、蓮から一歩、距離を取る。

「どうしたの、楓?顔色が悪いよ」

蓮の声に、楓は慌てて首を振った。

「ううん、なんでもない。ちょっと、寒かっただけ」

嘘。本当は、心臓が凍りつきそうだった。悠の声が、こんなにも鮮明に聞こえるなんて。

参拝を終え、境内の片隅にある、少し落ち着いた場所で休憩を取る。焚火の煙が、澄んだ冬の空に溶けていく。

「楓、無理しないで」

蓮は、楓の隣に座り直し、静かに言った。

「俺は、いつだって楓の味方だから」

――味方。

その言葉が、楓の胸を締め付けた。蓮の優しさが、あまりにも眩しくて、そして、あまりにも――遠い。

「…ありがとう、蓮」

俯き、言葉を探す。悠のこと。あの事故のこと。そして、蓮へのこの――

「俺、ちょっと、飲み物買ってくる」

蓮が立ち上がり、売店の方へ歩いていく。その背中を、楓はぼんやりと見送った。一人になった途端、空気が変わった。

――ざわ…ざわ…

目の前に、ふわりと、幼い弟の姿が揺らめいた。澄んだ、あの瞳。

「お姉ちゃん」

悠の声。けれど、その瞳には、かつての無邪気さとは違う、冷たい光が宿っていた。

「蓮くんのこと、本当に好きなの?」

――っ!

楓は、息を呑んだ。悠の声は、恨みがましい響きを帯びていた。

「私(わらわ)のこと、置いていくの?」

――私(わらわ)?

悠が、そんな言葉遣いをするはずがない。これは、悠じゃない。弟に、自分を縛り付けている、あの――怨念。

「私だけ、置いていくの?」

悠の姿が、楓のすぐ目の前で揺らめく。その言葉が、楓の心を、氷の刃で引き裂くように突き刺さる。

「悠…!」

楓は、言葉にならない叫びを、喉の奥に押し込めた。身体が、凍りついたように動かない。

「楓?」

蓮の声。売店から戻ってきた蓮が、楓の異様な様子に気づき、駆け寄ってくる。

「どうしたの、大丈夫?」

蓮の手が、楓の肩に触れようとした、その瞬間。

楓は、顔を上げた。悠の幻影を、真っ直ぐに見据えた。

「ごめんね、悠」

声は、震えていた。けれど、その瞳には、確かな決意が宿っていた。

「もう、大丈夫だから」

楓は、蓮の手を、今度は迷いなく、ぎゅっと握り返した。

――その瞬間。

悠の幻影は、掻き消えた。

境内を照らす初日の光が、楓の顔を、暖かく包み込んだ。蓮の温かい手に、楓は静かに微笑み返した。もう、悠の声は聞こえない。ただ、新しい一年への希望だけが、その手に響いている。

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