黒曜石の碁盤

外界から隔絶された、静寂のみが支配する一室。壁には古びた掛け時計が、規則的な鼓動を刻んでいた。その音だけが、この空間に虚無を掻き立てる。対局台に置かれた黒曜石のごとき碁盤。その上に、白と黒の石が、静かに、しかし強烈な意志を秘めて並んでいた。

桐生雅人。囲碁界の頂点に君臨し続けてきた巨星。しかし、その肉体は老衰という名の奈落に沈みかけていた。だが、その眼光は、老いの翳りとは無縁の、研ぎ澄まされた知性を宿していた。対するは、佐伯悠真。若き才能の旗手。その瞳には、桐生を打ち倒し、時代の寵児となるという、燃え盛る野心が宿っていた。

「始めましょうか」

桐生の吐息は、微かに震えていた。しかし、その声には、悠久の時を生きる者の諦観と、微かな、しかし抗いがたい渇望が混じっていた。佐伯は、桐生の老いを肌で感じ取っていた。この対局は、勝利への最短ルートだと確信していた。

盤上が、静かに熱を帯び始めた。佐伯は、自身の思考を盤上に映し出す。しかし、対局が進むにつれて、奇妙な違和感が、彼の意識の底を這い上がってきた。桐生の指し手が、時折、信じられないほど速くなるのだ。それは、閃きというよりも、すでに「答え」を知り尽くしているかのような、絶対的な正確さだった。

「まさか…」

佐伯の思考が乱れる。桐生の指し手は、まるで佐伯の思考を先回りしているかのようだ。盤上の石の配置が、佐伯の意図を完璧に読み解き、それを上回る一手で封じていく。桐生の目は、その一瞬、老いの翳りを消し去り、鋭い輝きを放った。佐伯は、その輝きの中に、血を思わせるような、鮮烈な赤みを見た気がした。それは、一瞬の幻覚だったのかもしれない。

佐伯の鼓動が速まる。興奮が、彼の全身を駆け巡る。この対局は、単なる勝負ではない。彼は、それを本能的に悟っていた。桐生は、時折、佐伯の顔をじっと見つめた。そして、かすかに微笑む。その微笑みは、人間という種の、脆く儚い熱情を見つめる、超越的な微笑みだった。佐伯は、桐生の視線に、自身の「熱」――純粋な興奮と、勝利への執着――が、吸い取られていくような感覚を覚えた。桐生の唇が、微かに、しかし確かに、潤んでいくように見えた。

終盤。盤上は、極限の静寂に包まれていた。佐伯は、追い詰められていた。桐生は、最後の一手を打った。それは、佐伯の理解を遥かに超えた、完璧な一手だった。佐伯は、投了を覚悟した。その時、桐生が静かに口を開いた。

「君の興奮、よく伝わってきたよ。」

その声は、穏やかだった。しかし、その言葉の響きは、佐伯の全身を凍りつかせた。

「だが、それは無駄だ。君の熱は、私の永き渇望を満たすには、まだ足りなかった。」

桐生は、ゆっくりと、しかし確信に満ちた口調で語り始めた。「君がこの対局に臨むたび、私は時間を巻き戻していたのだよ。」

佐伯は、言葉を失った。壁の掛け時計の音が、突如、急速に早まり始めた。カチ、カチ、カチ、カチ、カチ。そして、その音は、不意に、永遠の静寂へと変わった。

「君が勝利に近づくたび、私は時間を戻し、君の熱――その純粋な生命エネルギーを糧としてきた。永劫の孤独の中で、私を繋ぎ止めているのは、この囲碁への執着と、そして、若き血の熱だけなのだ。」

桐生は、かすかに微笑んだ。その顔には、永遠の若さが宿っていた。佐伯は、自分が盤上の駒ではなく、桐生の時間と生命を繋ぎ止めるための、儚い「餌」であったことを悟った。部屋の静寂は、もはや恐怖すら感じさせるものとなっていた。壁の掛け時計は、もはや時を刻んでいない。ただ、静かに、その存在を主張するばかりだった。

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