預言者の記憶

私の営むこの小さな喫茶店は、いつも静かで、窓の外には色褪せたような空が広がっている。訪れる客もまばらで、私、佐伯陽菜は、カウンターの隅で埃を被ったカップを磨きながら、過ぎゆく時間をぼんやりと眺めていた。夫の健吾は、温厚で、いつも私のことを気遣ってくれる。そんな彼が、「君は特別な力を持っているのかもしれない」と言ったのは、もうずいぶん前のことだったか。

それは、奇妙な夢を見るようになった頃だった。まだ見ぬ誰かの些細な行動、健吾が今日どんな言葉を口にするか、そんなことが、まるでこれから起こる未来を映し出すかのように、鮮明に私の脳裏に焼き付くのだ。最初は、疲れているのだろう、そう思っていた。しかし、夢で見た光景が、現実となって現れることが増えるにつれて、私はその「預言」を、無視できないものとして受け止めざるを得なくなった。健吾は、私の戸惑いを優しく包み込み、「陽菜の感性の豊かさの表れだ」と微笑んでくれた。彼の言葉は、私という存在の輪郭を、曖昧な不安から守ってくれる盾のように感じられた。

それでも、ある夜、悪夢を見た。それは、健吾が私を裏切る、そんな恐ろしい光景だった。夢の中の彼は、見知らぬ誰かと親密に語らい、その瞳には私に向けられることのない、冷たい光が宿っていた。私は、その夢の生々しさに、夜ごと魘されるようになった。健吾に打ち明けると、彼はいつものように穏やかな声で、「疲れているんだよ、陽菜。僕のことを信じてほしい」と、私の肩を抱き寄せた。彼の言葉は、心地よい響きを持っていたけれど、私の心には、小さな、しかし無視できない疑念の種が、静かに芽生え始めていた。

そんな頃、この街では不可解な事件が立て続けに起こっていた。警察の捜査は難航しているという。私は、夢で見た健吾の不審な行動と、この事件とが、何か繋がっているのではないかと、漠然とした不安に駆られていた。けれど、確かな証拠は何もない。ただ、私の心の中だけが、不協和音で満たされていく。

ある日の午後、私は健吾の不審な行動を、偶然にも目撃してしまった。それは、あの悪夢で見た光景の、断片的な記憶と重なるものだった。胸騒ぎを抑えきれず、私は匿名で警察に情報を提供した。担当の黒田刑事という人物は、私の断片的な証言に興味を示したらしい。それからというもの、健吾の様子が、どこかおかしくなった。彼は、私の顔色を窺うように、探るような視線を送ってくる。「何か、悩んでいるのかい?」と、彼は穏やかな声で尋ねてくるが、その言葉の裏には、私の抱える不安を、さらに煽るような響きが感じられた。

健吾は、私の不安を煽らないように、努めて平静を装っていた。しかし、その必死さが、逆に私には、何かを隠しているようにしか思えなかった。あの悪夢の光景が、現実のものとなっていく。二人の間には、見えない壁が、静かに、しかし確実に築かれていった。

そして、黒田刑事からの連絡。彼は、私が提供した情報から、ある「記憶」に辿り着いたという。それは、私が過去に経験した、ある忌まわしい出来事に関するものだった。刑事は、私が「預言」と信じていたものは、実は過去のトラウマからくる「記憶の混濁」であり、それを無意識のうちに補完し、再構築していたのではないかと、静かに、しかし鋭く指摘した。そして、健吾の不可解な行動は、私の「預言」に合わせた、巧妙な演技だったのだと。彼は、私を「守る」ため、過去の事件の真実を、隠蔽しようとしていたのだと。

喫茶店の片隅で、私は黒田刑事に告げられた言葉を、ただ静かに聞いていた。私が信じていた「預言」は、私の歪んだ記憶が生み出した虚構。そして健吾は、私の精神的な不安定さを知っていた上で、私を安心させるために、まるで「預言」が現実であるかのように振る舞っていたのだと。しかし、その「安心させるための演技」が、私の不安を増幅させ、私を追い詰めていたのだ。健吾の「愛」は、私を守るための、しかし同時に私を縛り付ける、冷たい鎖だった。私が信じていた「預言」も、夫の「愛」も、すべては歪んだ記憶と、それを庇おうとした(あるいは利用した)人々の欺瞞の上に成り立っていたのだ。警察は、私の証言と健吾の証言の矛盾に気づき、次第に真相に迫っていく。健吾は、私の信頼を失い、私の「預言」という虚構に合わせる演技の疲弊から、彼女への愛情すら失いかけている。残されたのは、互いを疑い、傷つけ合った、冷たい現実だけだった。窓の外は、もうすっかり暗くなっていた。

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