炊きたてのチューリップと、ジャージ着用の義務について
正午の鐘が鳴るよりも早く、視界の彩度が三〇パーセントほど低下した。世界の輪郭が薄墨色に沈むこの現象を、一般に「空腹」と定義する。
壁紙として貼られた辞書のページたちが、一斉に「飢餓」の項をカサカサと捲る音がした。常に微熱のような暖かさを保つ、この六畳一間の「培養槽」において、食事とはカロリーという熱量の摂取ではなく、色彩という波動の補給に他ならない。
私は箪笥から緑色のジャージを取り出した。袖を通すと、ポリエステル特有の冷やりとした感触が、瞬時に皮膚を締め上げる。これは単なる部屋着ではない。私という不安定な有機物を、一本の強靭な「茎」として直立させるための拘束具であり、この世界で呼吸をするために義務付けられた外骨格なのだ。緑色であること。それはすなわち、私が光合成の権利を有するという証明でもある。
台所へ向かい、炊飯器の蓋を開ける。湯気は立たない。そこには、ふっくらとした白米の代わりに、硬質で冷ややかな「沈黙の粒」がぎっしりと詰まっていた。それはまだ名前を持たない、未定義の概念の結晶だ。箸で突くと、カチリと鉱物的な音がした。
「おい、若いの。それはまだ食えんぞ」
冷蔵庫の奥から、くぐもった声が響く。扉を少し開けると、庫内の賢者であるキャベツが、しなしなに萎びて茶色く変色した葉を揺らしていた。彼は自らの腐敗を「熟成された哲学的思考」と呼び、冷気の中で世界真理についての瞑想を続けている。
「その粒は、単なる音素の羅列に過ぎないのだからして。適切に加熱し、文脈という名の『意味』を与えねば、喉を通るどころか、食道を概念的に閉塞させるぞ」
キャベツの警告はもっともだ。意味のない言葉ほど、消化に悪いものはない。私は焦燥に駆られ、炊飯器の中の「発音できない生米」を両手で鷲掴みにし、ジャージのポケットへとねじ込んだ。炊飯器のスイッチは壊れている。ならば、私自身の体温で、この沈黙を孵化させるしかない。
私は部屋の中央で、反復横跳びを開始した。
右へ、左へ。畳の目が擦り切れるほどの高速移動。運動エネルギーは摩擦熱となり、私の体温は急上昇する。私は特異体質だ。私の高熱は、周囲の物理法則を少しだけ融解させ、事物の「意味」を変質させる触媒となる。私の熱が、ポケットの中の「音素」を調理するのだ。
「三十七度五分……三十八度……」
熱が上がるにつれ、ポケットの中の沈黙が、カチ、カチ、と音を立て始めた。それは米が炊ける音ではない。硬い蕾が、内側からの圧力に耐えきれず、綻びようとする音だ。 ジャージのポリエステルが、熱でドロリと溶け出し、私の皮膚と癒着を始める。どこまでが繊維で、どこからが表皮なのか、境界線が曖昧になる。血管がジャージの縫い目と接続し、葉脈となって全身を巡る。私という土壌から、何かが猛烈な勢いで養分を吸い上げている感覚。意識が遠のく。いや、意識が「植物的」に変容していく。
限界を超えた、その瞬間だった。
ジジジ、と何かが裂ける音がした。私の意思とは無関係に、ジャージのファスナーがゆっくりと下りていく。それはまるで、熟した果実が自ら皮を割るような必然性を持っていた。
胸元が開かれた瞬間、そこから溢れ出したのは、心臓の鼓動ではなく、暴力的なまでの「赤」だった。
ボンッ、という音と共に、私の胸から巨大なチューリップが爆発的に開花した。
ポケットに詰めた「沈黙」は肥料だったのだ。熱によって孵化したのは「意味」ではなく「美」だった。私の空腹、すなわち色彩の欠乏は、視界を埋め尽くす鮮烈なクリムゾンレッドによって、瞬時に、そして強制的に満たされた。
私は悟る。ジャージを着て米を温めたのは、それを咀嚼するためではなかった。私自身が花瓶となり、この灰色の世界に「赤」という概念を突き刺すためだったのだ。食べる側から、咲かせる側へのコペルニクス的転回。
「……美しい、と言わざるを得ない」
冷蔵庫からキャベツの嘆息が漏れた。
胸に咲いたチューリップは、私の喉から「言葉」を吸い上げていく。私が何かを話そうとするたびに、花弁は艶やかに震え、代わりに金色の花粉を部屋中に撒き散らした。 舞い散る金粉の中で、辞書の壁紙たちが文字を剥がして踊り始める。「存在」という文字が「春」という文字と手を取り合って消えていく。部屋の輪郭が溶け、天井が空へ、床が大地へと還っていく。
私はもう、人間ではないのかもしれない。あるいは、最初からただの「春の気配」を入れた容器だったのかもしれない。
言葉を失った口元に、微かな笑みが浮かぶ。満たされた腹の底から、光合成のような静かで温かな喜びだけが、ゆっくりと込み上げてきた。