漬物の夜に、魂の叫び、愛憎の爆発

地方都市の片隅、駅からも遠く、人通りの少ない路地にひっそりと佇むカラオケスナック「紫苑」。そのママ、水島恵は、カウンターの奥で、黙々と手作りの漬物を並べていた。きゅうり、茄子、そして大根。それぞれの色合いが、薄暗い店内に鈍く光る。しかし、その指先は、まるで細かく刻まれた刃物のように震え、早鐘のように打つ心臓は、喉元までせり上がってきそうな焦燥感を掻き立てていた。あの男の気配――佐伯健一。かつての恋人。その気配を、研ぎ澄まされた五感が、皮膚の奥底から捉えてしまったのだ。店の片隅で、静かにグラスを傾けていた常連客の佐藤陽子は、恵の肩の微かな震えに気づき、遠くから不安げな視線を送る。店内に張り詰めた静寂は、まるで嵐の前の凪のように、怒りさえ孕んで漂っていた。漬物の酸っぱい匂いが、むせ返るように鼻腔をくすぐる。

健一が、古びたドアを開けて入ってきた。昔と、何一つ変わらない、あの傲慢な笑みを浮かべて。その足音すら、恵の心を激しく揺さぶる。彼はまっすぐ恵の元へ歩み寄り、カウンターに肘をついた。「まだ、こんなところで歌ってるのか?」。その言葉は、恵の心の奥底、誰にも見せぬように仕舞い込んでいた、健一への激しい嫉妬と、それでも綺麗に消え去ることのない憧れを、直接的に、無慈悲に抉り出した。陽子は、健一の言葉に、まるで自分のことのように一喜一憂し、恵への嫉妬を、燃え盛る炎のように燃え上がらせた。恵は、健一から目を逸らし、並べた漬物に視線を落とした。その酸っぱい匂いの中に、健一に裏切られた過去の苦い記憶が、剥き出しのまま、生々しく重なり合っていく。あの時と同じ、喉の奥にこみ上げる苦味。

「昔のように、歌ってくれよ、恵」。健一が、剥き出しの欲望を滲ませた声で、恵に迫った。恵は、震える声で拒否した。「もう、歌わないわ」。しかし、健一の執拗な言葉は、恵の心の傷を、まるで蛆虫のように這い回り、さらに抉り続けた。言葉の棘が、次々と恵の心の肉に突き刺さる。ついに、恵は、震える指先で、マイクを握りしめた。その冷たい感触が、彼女の全身を駆け巡る。陽子は、恵が健一のために歌う姿に、耐えられなかった。カウンターで、無言で、しかし激しく嗚咽した。恵への嫉妬と、健一への愛。その二つの感情が、彼女の胸の中で激しくぶつかり合い、魂を震わせる嗚咽となって、店内に響き渡る。それは、恵への嫉妬と健一への愛の、悲痛な叫びだった。

恵が選んだのは、かつて、健一と二人でよく歌った、あの切ないバラードだった。歌い始めは、まるで壊れかけのオルゴールの音色のように震えていた恵の声が、健一への裏切られた怒り、それでも消え去ることのない愛情、そして陽子への複雑な想いを乗せ、地獄の底から響くような、凄まじい激しさを増していく。その声は、もはや制御不能な炎となっていた。「もう、あなたに、囚われていたくないっ!」歌詞は、恵の剥き出しの感情を、そのまま代弁していく。健一は、恵の激情に、目を奪われていた。その瞳に、初めて動揺の色が浮かぶ。陽子は、恵の歌声に、自身の想いを重ねていた。恵の叫びに呼応するように、激しく、魂を震わせる嗚咽を漏らしていた。

サビに差し掛かると、恵の声は、もはや人間の声の限界を超え、魂の叫びと化していた。「この漬物みたいに、苦くても、私だけの味で、生きていくんだからっ!」。恵は、マイクを力任せに叩きつけ、健一を睨みつけた。その瞳は、燃え盛る炎そのものだった。健一は、恵の激情に、完全に打ちのめされ、その顔に初めて、空虚ではない、剥き出しの恐怖が浮かんだ。陽子は、恵の叫びに呼応するように、怒りと悲しみを込めて、カウンターに並んでいた漬物の壺を、力任せにひっくり返した。酸っぱい匂いと、割れる陶器の音。そして、三人の激情が、店内の空気を激しく掻き乱し、空間が破裂するかのような、途方もない熱量に包まれた。それは、愛憎の、魂の爆発だった。

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