月末の麦茶、兄と私

真夏の月末、陽菜は部屋の片隅に溜まった宿題の山を見上げ、ため息をついた。窓の外からは、蝉の声が遠慮なく降り注ぎ、部屋の中までじっとりと熱気を帯びている。課題なんて、本当は今すぐにでも投げ出して、涼しい風の吹く場所へ逃げ込みたい気分だった。夕食時、リビングに運ばれてきたのは、兄・悠真が慣れた手つきで作ってくれた麦茶だった。ひんやりとした陶器の感触が、湯気の立ち込める食卓に涼をもたらす。悠真が無造作にかき上げた髪が、陽菜のすぐそばで揺れ、その肩に触れそうな距離感に、陽菜の心臓は不意に早鐘を打ち始めた。彼が「これ、お前が好きなやつ」と、グラスを手に取って渡してくれた時、指先がかすかに、本当にかすかに触れたような気がした。その瞬間、陽菜の頬は、まるで太陽に炙られたように熱くなった。いつもの兄の、あの穏やかで優しい声なのに、今日はなぜか、胸の奥がざわめき、落ち着かない。

学校でも、陽菜の心はまるで嵐の中の小舟のようだった。親しい友人たちとの他愛ないおしゃべりも、どこか上の空。クラスメイトの男子がふと視線を送ってきたり、部活の先輩が肩を軽く叩いてくれたりするたびに、以前は何も感じなかったはずなのに、今は妙に意識してしまう自分がいた。特に、悠真が部活の先輩と楽しそうに話しているのを目にした時、胸の奥がチクリと痛んだ。それは、ただの友達への嫉妬とは違う、もっと深く、胸を締め付けるような、形容しがたい感覚だった。兄の温かい手が、自分の肩にそっと置かれた時の、あの安心感にも似た熱とは全く違う、友人からの軽い接触の温度差に、陽菜はただ戸惑うばかりだった。この胸のざわめきは、一体何なのだろう。

月末が近づき、夏の盛りは過ぎても、気温は依然として高く、アスファルトから立ち昇る熱気が陽菜の肌を撫でる。宿題の参考書がどうしても見つからず、陽菜は悠真の部屋のドアをそっと開けた。窓から差し込む西日が、悠真の横顔を夕焼け色に染めている。彼は、膝の上に置かれた麦茶のグラスを持つ手が、陽菜の知るどんな絵画よりも綺麗に見えた。光の加減で際立つ喉仏の小さな動き、指の節くれだった、でもそこには優しさが宿っている、そんな形。悠真は、陽菜の気配に気づき、顔を上げた。「どうした?顔、赤いぞ」その声は、いつも通り温かい。その温かさに呼応するかのように、陽菜の体温はさらに上昇していく。兄の部屋に漂う、微かに香る石鹸の匂いと、悠真から放たれる体温が混ざり合った空気が、陽菜の頬を熱くさせた。まるで、真夏の夜に突然吹いた熱風のようだった。

その夜、陽菜はなかなか寝付けなかった。ベッドの中で、兄との些細なやり取りが、いくつもいくつも、まるで映像のように頭を駆け巡る。手が触れ合った時の、あの熱。麦茶の、ひんやりとした冷たさ。兄の声の、あの響き。それらが、まるでパズルのピースのように、一つ、また一つと、陽菜の心の中で「恋の初期衝動」という言葉に結びつき始めた。自分の頬に触れた時の熱さが、まるで初めて聞く音楽のように新鮮に感じられ、心臓の鼓動は早鐘を打っていた。兄への想いは、家族への愛情とは違う、もっと切なくて、ドキドキするものなのではないか。月末の夜空を見上げながら、陽菜は自分の胸の高鳴りに、初めて真剣に向き合おうとしていた。それは、まるで夏の夜に突然訪れた、熱い吐息のような、甘く切ない感覚だった。

翌朝、陽菜はいつものようにリビングへ向かった。テーブルの上には、昨夜と同じ、冷たい麦茶のピッチャーが置かれている。悠真が、陽菜のために用意してくれたのだ。陽菜がグラスに麦茶を注ごうと、そっと手を伸ばした、その瞬間。悠真が「おはよう」と声をかけながら、丁度同じタイミングで、こちらへ手を伸ばしてきた。二人の指先が、麦茶の冷たいグラスの上で、ほんの一瞬、触れ合った。指先から伝わる微かな汗の湿り気と、互いの体温が、まるで溶け合うかのように混ざり合う感覚。その刹那、陽菜の頬は、夏の夕立のように真っ赤に染まり、心臓は激しく、力強く脈打った。悠真は、そんな陽菜の様子を、少し驚いたように、でも優しく、そしてどこか戸惑うように、じっと見つめ返していた。この、息が止まりそうなほどの、甘酸っぱい「予感」こそが、恋の始まりなのだと、陽菜は確信した。

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