土と夜明けの約束
「よーし!研修初日!笑顔で、元気に、そして何よりも、泥まみれになるまで楽しむぞー!」
田中一郎、25歳、新人研修生。その気合の入りようは、朝一番に遅刻しかけた時点で早くも空回りしていた。工房に駆け込んだ彼の顔には、泥の鼻についたような笑顔が貼り付いている。
「おい、田中!何をやっている!」
工房の主、山田宗一郎老人の雷が落ちる。しかし一郎は、その怒鳴り声すらも「これも愛の鞭でございます!」と受け止め、さらに勢いづいてろくろに向かう。
結果、案の定、泥は天井まで舞い上がり、隣で黙々と作業していた同期の佐藤健太の額に、芸術的な一点模様を刻みつけた。
「…で?これが君の『楽しむ』やり方?」
健太は、額の泥を指でなぞりながら、嫌味ったらしく微笑んだ。隣では、しっかり者の鈴木恵美が、呆れ顔で頭を抱えている。
「いやはや、これは失礼いたしました!でも、これも研修の『スパイス』といったところで!さあ、皆さん、笑って研修を終えましょう!」
一郎の空回りは止まらない。やたらと大声で笑ってみたり、意味不明な合いの手を入れてみたり。その度に、工房には、嘲笑とも取れるような、しかしどこか温かい空気が流れた。
研修は数日続き、一郎の「明るく振る舞おう」という努力は、ますます空回り度を増していった。健太は、そんな一郎の様子を面白がり、事あるごとにちょっかいを出す。
「おい、田中。お前、なんか隠してないか?やけに元気すぎるだろ」
「え?いやいや、健太さん、そんなことございませんよ!ただ、不器用なだけっす!」
一郎は、いつものように大きな口で笑い、健太の言葉をはねつけた。だが、夜、一人でろくろに向かう彼の横顔には、確かに、誰にも見せられない陰りがあった。
研修最終日。早朝、工房には特別な課題が課されていた。「夜明けの釉薬がけ」。夜明けの光の中で行うことで、釉薬に深みが増すという、古来より伝わる伝統的な技法だ。
「よし!父さんの夢を、ここで叶えるんだ!」
一郎は、誰よりも気合を入れていた。しかし、その気合が空回りしたのか、彼の手に持っていた釉薬の壺が、派手にひっくり返ってしまった。工房の床は、見るも無惨に、色とりどりの釉薬で染まった。
「…貴様、何をしている!」
山田先生の顔は、怒りで真っ赤に染まっていた。普段は寡黙な老陶芸家が、激昂した。一郎は、その凄まじい怒気に、ただ立ち尽くすしかなかった。
「出ていけ!こんな工房には、お前のような素人は必要ない!」
一郎は、謝ることもできず、ただ、床に広がる釉薬の海を見つめていた。健太と恵美も、さすがに彼を責め、一郎は、誰にも何も言わず、工房から一人、雨の中へと飛び出した。
工房の外、冷たい雨に打たれながら、一郎は、ただただ泣いていた。同期の二人に責められ、山田先生にまで見放され、もう、何もかも終わったのだと。
「…あのさ、田中」
背後から、健太の声がした。一郎が振り返ると、健太は、ずぶ濡れの顔で、しかし、いつもの皮肉な笑みを消し、静かに一郎を見つめていた。
「お前、昔、お父さんと陶芸やってただろ?」
その言葉に、一郎の全ての鎧が剥がれ落ちた。彼は、堰を切ったように泣き出した。
「父さん…父さんは、昔、陶芸家だったんです。でも…でも、事故で、指先が…」
一郎の父は、かつて才能ある陶芸家だった。しかし、工房で起きた不慮の事故により、指先を火傷。繊細な感覚を失い、陶芸の道を断念せざるを得なかったのだ。一郎は、父の無念を晴らしたかった。「父さんに『すごいだろう』って言われたかった」という想いで、必死に研修に臨んでいたのだ。そして、あの必死の明るさも、父の悲劇を思い出したくなくて、無理に笑顔を作っていたからだった。
健太は、一郎の隣に座り、静かに語り始めた。「お前の父さん…俺の父さんとは、昔からの知り合いでな。指先が不自由になっても、諦めずに、ずっと陶芸を続けていたよ。そして、いつも言っていたんだ。『夜明けの光は、器に一番の彩りを与える。いつか、息子と二人で、その光の中で焼き上げた器を作りたい』ってな」
健太は、一郎の父が、事故で指先を失った後も、それでも陶芸を諦めず、息子との未来を夢見ていたことを、静かに伝えた。
一郎は、健太の話を聞き、父への想いを、父の夢を、胸に抱きしめた。そして、雨が止み、空が白み始めた頃、彼は、決意の表情で、再び工房へと戻った。
山田先生は、一郎の覚悟と、父への深い愛情に、何も言わず、ただ黙って作業を許した。一郎は、父への感謝と謝罪、そして「もう一度、父さんと一緒に作りたかった」という切ない想いを込めて、渾身の茶碗を制作し始めた。
父が使っていた、古びた刷毛をそっと手に取る。父がよく口にしていた「夜明けの光は、器に一番の彩りを与える」という言葉を胸に刻む。夜明けの光が、工房に、そして一郎が作る茶碗に、静かに差し込み始めた。
一郎が、茶碗を釉薬にかける。すると、そこには、父が夢見た、温かくも切ない、忘れられない光が宿っていた。それは、失われた絆、そして再生への希望の光だった。
健太と恵美は、その光景を見て、静かに涙を流していた。山田先生は、一郎の茶碗を手に取り、その温かい光に包まれながら、静かに呟いた。
「…悪くない」
一郎は、父に、この想いが届いたと確信し、静かに、しかし熱い涙を流した。笑ってごまかしていた彼の、父への深い愛情と、失われた絆への痛切な想いが、夜明けの光と共に、静かに、しかし力強く、見る者の涙腺を崩壊させた。