梅雨空の異物
じめじめとした梅雨空が、煤けた窓ガラスに張り付くように垂れ込めていた。佐藤健一は、淀んだ空気を吸い込みながら、課長の机の前で言葉を待った。湿ったアスファルトの匂いと、どこかカビ臭いオフィス特有の臭いが混じり合い、佐藤の胃を不快に掻き回す。課長は、煙草の煙をくゆらせながら、佐藤の平凡な顔を値踏みするように見つめていた。「佐藤君、君に新しい部署を任せることにした」。\n\n新しい部署、それは響きだけは悪くなかった。しかし、課長の口調は、まるで古びた家電製品を押し付けるような、投げやりな響きを帯びていた。佐藤の胸に、嫌な予感が冷たい雫のように染み渡る。\n「部署の縮小に伴う、まあ、肩たたきのようなものだ」課長は、歯切れ悪く続けた。実質的な左遷。佐藤の平凡な人生に、突如として泥水が注がれたような感覚だった。絶望が佐藤の全身を這い上がる。「しかし、田中君も一緒だから」。\n\n田中恵子。いつも物静かで、佐藤の陰に隠れるように存在していた同僚。彼女が、この屈辱的な異動に、一体どのような意味を持つというのか。佐藤は、田中の底意地の悪い、感情の読めない顔を思い浮かべ、漠然とした疑念を抱き始めた。\n\n異動先の部署は、文字通り、佐藤と田中だけが残された、忘れ去られたような片隅だった。窓の外は、相変わらず重たい雨が降り続いている。佐藤は、溜まった書類の山を前に、田中の顔を盗み見た。彼女は、まるで何も起こらなかったかのように、静かにペンを走らせている。\n\n「田中さん、これは一体……」佐藤は、努めて平静を装いながら、田中を問い詰めた。\n「課長のご命令ですから」田中は、抑揚のない声で答えた。その目は、佐藤の顔をまっすぐに見つめているようで、その実、何も映していないかのようだった。\n\nそれから、奇妙なことが始まった。佐藤のパソコンに、意味もなく「梅」という絵文字が大量に送りつけられるようになった。佐藤のデスクの上には、いつの間にか、一粒、また一粒と、梅干しが置かれるようになった。佐藤は、田中の異常な行動に、生理的な嫌悪感と、かすかな恐怖を感じ始めた。彼女は、一体何を企んでいるのだろうか。\n\n佐藤は、田中が自分をこの閑職に追いやった張本人だと確信するようになった。課長に訴えようとしたが、課長は聞く耳を持たなかった。「田中君も君と同じ状況なんだから、協力しなさい」。保身に走る課長の顔には、田中の異様な執着に気づいている、しかし見て見ぬふりをしている、という欺瞞が露骨に浮かんでいた。\n\n田中は、さらにエスカレートしていった。佐藤の携帯電話に、「梅」とだけ書かれたメッセージが、まるで呪文のように送りつけられる。佐藤がどこにいても、誰と話していても、田中がすべてを監視しているかのような錯覚に陥った。佐藤の精神は、梅雨の湿気のように、じわじわと蝕まれていった。\n\nある雨の激しい夜、佐藤は残業をしていた。オフィスに一人、静寂が支配していた。ふと、窓の外に人影が見えた。田中だ。彼女は、一人でオフィスに残っていた。佐藤は、恐る恐る、彼女のデスクに近づいた。雨音が、窓を叩きつけるように激しく響いている。\n\n田中は、デスクに顔を埋めるようにして、何かに没頭していた。佐藤が、その背中にそっと手を伸ばそうとした、その時。田中が、ゆっくりと顔を上げた。\n\n佐藤は、息を呑んだ。田中の顔には、人間とは思えない、異様な光沢があった。まるで、熟しきった果実のように、ぬめりとした光沢。\n「佐藤さん」田中の囁きが、雨音に掻き消されそうになりながら、佐藤の耳に届いた。「あなたは、私を裏切りましたね」。\n\n田中の手には、佐藤の顔写真が貼られた、大粒の梅干しがあった。その写真からは、赤黒い汁が滲み出し、梅干し全体を鈍く光らせていた。佐藤は、自分の過去のある出来事を思い出した。田中の亡くなった妹のことだ。借金で首が回らなくなり、自殺した彼女。佐藤は、その秘密を課長にチクったのだ。その結果、妹の遺品はすべて処分された。佐藤自身は、そのことをとうに忘れていたが、田中は、鮮明に覚えていたのだ。田中の目は、まるで熟しきった梅の実のように、赤く爛々と輝いていた。\n\n翌朝、佐藤は出社しなかった。田中は、一人、閑職の部署で静かにパソコンに向かっていた。画面には、色とりどりの「梅」の絵文字が、延々と表示され続けていた。雨音に混じり、佐藤の微かな呻き声のようなものが聞こえる気がした。佐藤の席は、空いたままだった。誰も、佐藤の行方を気にしない。\n\n数日後、佐藤のデスクからは、微かに腐敗したような、しかしどこか甘酸っぱい匂いが漂い始めた。田中は、その匂いにかまう様子もなく、ただ黙々と「梅」の絵文字を打ち続けていた。それはまるで、佐藤が田中の「怪物」によって、梅の果肉のように、じっくりと、しかし無残に食い尽くされていったことを示唆していた。佐藤の顔写真が貼られた梅干しが、佐藤のデスクの引き出しの奥から、不気味な光沢を放っていた。異動は、佐藤にとって「怪物の餌食」になるための、巧妙な罠だったのだ。雨は、まだ降り続いている。