夕暮れのメロディ

夕暮れの茜色が、窓ガラスに滲んでいた。佐伯悠衣は、その儚い光景をぼんやりと眺めていた。数十年を経たこの家には、古びた木材と埃の匂いが混じり合い、独特の懐かしさを醸し出している。夫である健吾の穏やかな寝息が、奥の寝室からかすかに聞こえてくる。悠衣は、この静かで満ち足りた生活に、表向きは満足していた。退屈、という言葉は、口にするのも憚られるほどに、この家には似つかわしくない響きを持っていたからだ。

「悠衣、お茶はいかが?」

健吾の声は、いつも穏やかで、耳に心地よい。彼は、悠衣の些細な変化にもすぐに気づき、細やかな気配りをしてくれた。その優しさが、悠衣の心を温かく包み込む。幼馴染である涼子も、時折訪ねてきては、悠衣の単調な日常に明るい風を吹き込んでくれた。

「ありがとう、健吾さん。でも、もう少しこの景色を眺めていたい気分なの」

悠衣は微笑んで答えた。茜色は、徐々に深い紫へと姿を変えていく。その移ろいゆく空の色に、悠衣は漠然とした幸福感と同時に、それ以上の何かを求めるような、得体の知れない不安を覚えていた。

最近、健吾の悠衣への気遣いは、一段と細やかさを増していた。食事の内容、睡眠時間、果ては外出の回数まで、まるで母親が子供を心配するように、健吾は悠衣の日常を管理し始めたのだ。

「君のためだ、悠衣。君の健康が何よりも大切なんだから」

健吾は、そう言って悠衣の髪を優しく撫でた。その言葉は、温かい毛布のように悠衣の心を覆うはずだった。しかし、その言葉の裏に、無視できない何かの気配を感じ取ってしまうのは、なぜだろうか。それは、まるで優しさという名の、細く、しかし頑丈な紐で、悠衣の自由を束縛しているかのような感覚だった。

涼子は、そんな健吾の行動に、かすかな違和感を覚えていた。しかし、悠衣が幸せそうにしているのを見れば、それ以上何も言うべきではないだろうと、自らを戒めるようにしていた。悠衣が健吾の過保護を「愛」だと信じているなら、それを邪魔する権利は、自分にはないはずだ。そう、思いたかった。

悠衣の体調が、思わしくない日が続いた。微熱、倦怠感、そして時折襲ってくる、激しい頭痛。健吾は、さらに献身的に悠衣の世話を焼いた。食事を作り、薬を飲ませ、添い寝をして、悠衣が眠るまで手を握っていた。

「大丈夫だよ、悠衣。私がそばにいるからね」

しかし、その献身は、次第に悠衣の行動を制限する方向へとエスカレートしていった。外部からの電話は、健吾が取り次ぐようになった。涼子からの見舞いの申し出も、悠衣の体調を理由に、丁重に断った。

「悠衣、君は今、静養が必要なんだ。刺激は、君の体には良くない」

健吾の声は、あくまで穏やかだった。だが、悠衣はその言葉の裏に、自分を外界から隔離しようとする、冷たい意図を感じ取っていた。涼子は、悠衣からの連絡が途絶えたことを訝しみ、健吾の家を頻繁に訪れるようになった。しかし、悠衣はいつも「体調が悪いから」と、会うことを拒んだ。その声には、以前のような明るさはなく、どこか虚ろな響きがあった。

ある、いつものように茜色が空を染め上げる夕暮れ時。悠衣は、健吾が書斎で何やら作業をしている気配を感じながら、ふと、開け放たれたドアの隙間から、書棚の一角に目をやった。そこには、何冊かのファイルが、整然と並べられていた。そのうちの一冊に、「妻の日常」と、丁寧に記されたタイトルがあった。

好奇心に駆られた悠衣は、そっと書斎に足を踏み入れた。ファイルを開くと、そこには、悠衣の行動記録、写真、そして、健吾が記したであろう、独白が綴られていた。

「彼女が私から離れていかないように、完璧な環境を整えなければならない。私が、彼女の全てを守ってあげるのだ」

さらに、悠衣が過去に抱いていた「誰かのために生きる」という漠然とした願望が、健吾によってどのように歪められ、彼女自身の記憶すら、意図的に操作されようとしていたかのような、断片的なメモが、そこにはあった。悠衣は、健吾の「愛」が、自分を解放するためではなく、自分を永遠に所有するための、精巧に作られた「檻」であったことに気づいた。激しい恐怖と絶望が、彼女の全身を駆け巡った。

「涼子…」

無意識のうちに、その名を呟いていた。助けを求めたかった。しかし、その声は、書斎の静寂の中に、かき消された。悠衣が書斎から出てくる気配を察知したのか、健吾がゆっくりとドアを開ける音がした。

「悠衣?どうしたんだい?」

悠衣は、健吾の顔を見た。その顔には、いつもの穏やかな微笑みが浮かんでいた。しかし、悠衣には、その微笑みの裏に隠された、悍ましい所有欲が見えていた。

「もう…大丈夫だよ、健吾さん」

悠衣は、震える声で言った。「あなたがいれば、私は何もいらない」

健吾は、まるで長年の苦労が報われたかのように、安堵の表情を浮かべ、悠衣を優しく抱きしめた。その腕は、温かかった。しかし、悠衣には、その温かさが、自分を永遠に閉じ込めるための、冷たい鉄の檻のように感じられた。

その夜、涼子は、悠衣からの連絡がないことを不審に思い、健吾の家を訪れた。玄関のドアは、わずかに開いたままになっていた。家の中は、昼間のような静寂に包まれていた。リビングのテーブルには、湯気の立つ紅茶が二つ。悠衣が、健吾のために淹れたのだろう。そして、その傍らには、一枚のメモが置かれていた。

「涼子へ。 健吾との生活は、私が選んだ道です。 もう心配しないで。 私、とっても幸せよ。」

悠衣の筆跡によく似ている。しかし、普段の丁寧すぎるほどの文字とは異なり、どこか力強く、しかし細部には震えが感じられるような、歪んだ文字だった。涼子は、その文字から、悠衣の必死の叫びを聞いたような気がした。

部屋の奥からは、健吾が悠衣に語りかける、穏やかな声が聞こえてきた。

「これでいいんだ、悠衣。君は、いつだって私のものだ。」

涼子は、悟った。悠衣が、健吾の支配を受け入れた決定的な瞬間を。それは、あの夕暮れの書斎で、健吾の言葉に、無抵抗に頷いた、その時だったのだ。あまりにも完璧に偽装された善意と支配の構造に、涼子は言葉を失った。悠衣の「憧れ」は、他者の手によって歪められ、退屈な日常は、永遠に変わることのない静寂へと変貌を遂げていた。悠衣の「幸せ」は、健吾という名の檻の中で、永遠に飼い殺されることを意味していたのだ。

この記事をシェアする
このサイトについて