銀の竜、時の綻びを縫う
除夜の鐘の音が、重たい空気に溶け込むのを待っていた。百八つ目の鐘が鳴るまでの、あの永遠にも似た空白。私はこたつの天板に頬を預け、ミカンの皮の飛沫が乾いていく様をじっと眺めていた。
ふと、視界の端が気になった。こたつ布団の幾何学模様の縁に、一本のほつれが見える。それはただの糸くずのようでいて、どこか世界そのものの綻びのように見えた。
職業病というやつだろうか。仕立屋の見習いとして、布地の悲鳴には敏感すぎるきらいがある。私は無意識に、その頼りない糸をつまんで、くいくいと引っ張った。
ずるり。
布が解ける音ではなかった。空間が、質量を持って雪崩れる音だった。
私が引っ張ったのは、こたつ布団の糸ではなく、「十二月三十一日」という時間の端糸だったのだ。目の前の景色が、まるで裏地を剥がされたコートのようにめくれ上がり、その下から、まだ染色されていない無垢な生成りの空間が露わになる。
「あ」
間の抜けた声を上げたときには、もう遅かった。私は見慣れた六畳間ではなく、どこまでも続く畳の平原に放り出されていた。天井はなく、暗闇の彼方から無数の赤い糸が垂れ下がっている。それは誰かの未練か、あるいは結ばれなかった約束か。
「困ったわ。これじゃあ、年が越せない」
私は独り言つ。解けてしまった時間は、縫い直さなければならない。一年の終わりと始まりが分離してしまえば、世界は永遠にこの隙間に閉じ込められてしまうだろう。
慌てて膝元の裁縫箱を開ける。けれど、肝心の針が見当たらない。待ち針も、縫い針も、どこかへ家出してしまったようだ。
「……針がないと、昨日の続きを今日に繋げられない」
途方に暮れて箱の底をさらうと、指先に冷やりとした硬質の感触が触れた。それは、一年間ずっと玄関に飾っていた、陶器の「辰」の置物だった。去りゆく年の主役。
その辰が、私の掌の上で、とろりと輪郭を崩した。
まるで水銀のように形を変え、鋭く、細く、研ぎ澄まされた一本の銀色の針へと収束していく。針穴の部分だけが、かつての竜の眼を宿したまま、ぎろりと私を睨みつけた。
『我を使え』
声は耳からではなく、脳髄の柔らかい部分に直接響いた。
『ただし、心せよ。我は硬い布を好まぬ。概念を貫くことを是とする』
「喋る針なんて、聞いたことがないわ」
『ふん。貴様が普段相手にしているのは、死んだ綿や絹だ。我は生きた時間を縫う。光栄に思え』
尊大な物言いに、私は苦笑するしかなかった。けれど、他に手立てはない。私は銀の竜――いや、針を手に取った。
さて、糸はどうしよう。天井から垂れ下がる赤い未練を使おうかと思ったが、竜が鼻を鳴らした(ような気がした)。
『そのような脆い糸で、強固な時間を繋ぎ止めるつもりか? すぐ切れるぞ』
「じゃあ、何を使えばいいの?」
『貴様の懐にあるだろう。書き損じた年賀状のインク、あるいは、喉元で止まったままの「ごめんなさい」や「ありがとう」だ』
私は言われた通り、記憶の澱を指先で紡いだ。濃紺のインクと、透明なため息が混ざり合い、強靭な糸となる。それを竜の針穴に通すと、彼はくすぐったそうに身を震わせた。
作業が始まる。
右手に、「去年の尻尾」である解けかけた十二月を。左手に、まだ形を成していないあやふやな「今年の頭」を。
チクリ。
竜の針が、空間を貫く。抵抗はない。むしろ、水面に指を沈めるような滑らかさだ。
「まっすぐ縫えばいいのよね?」
『愚か者め。時間は直線ではない。そんな野暮な流行(モード)に従う必要はない』
竜は私の指を操り、勝手気ままに針を進める。あろうことか、彼は足元に転がっていた「六月の湿った雨の匂い」をすくい上げ、「初日の出」の裏地として強引に縫い付け始めた。
「ちょっと、そんなことをしたら季節がおかしくなるわ」
『良いのだ。晴れやかな朝に、憂鬱な雨の匂いが混じる。その矛盾こそが、人生という布地の風合いだろう? 論理で構成された服など、窮屈で着られたものではない』
私は縫う。一針ごとに、私という存在の輪郭が曖昧になっていく。私が縫っているのは時間なのか、それとも私の皮膚なのか。去年の私と、今年の私は、本当に連続した存在なのだろうか。それとも、この継ぎ目で一度死んで、新しく生まれ変わるのだろうか。
継ぎ接ぎだらけの時間。歪で、不規則で、けれど妙に美しい襞(ひだ)が生まれていく。
『悪くない手際だ。貴様、仕立屋よりも、世界修復師の方が向いているかもしれんぞ』
「お断りよ。こんな細かい作業、肩が凝って仕方がない」
最後の一針。私は心を込めて、玉止めを作った。去年の悲しみも、喜びも、すべてを小さな結び目に封じ込めるように。
『……終わったな』
竜が満足げに呟くと同時に、世界がガタリと大きく揺れた。
視界が歪む。畳の平原が遠ざかり、こたつの温もりが急速に押し寄せてくる。竜の針は、私の手からするりと抜け出し、光の粒子となって霧散した。
ゴォォォォォン……。
重厚な音が、腹の底に響く。除夜の鐘の、最後の一音だった。
気がつけば、私はこたつで突っ伏していた。テレビの中では、晴れやかな顔をした人々が新年の挨拶を交わしている。
「……夢、か」
そう呟いて、私は自分の右手の親指を見た。そこには、小さな銀色の点が、刺し傷のように残っていた。痛みはない。ただ、そこだけ時間が止まっているかのように、冷たく光っている。
台所へ立ち、おせち料理の重箱を開ける。黒豆を一粒、箸でつまみ上げたとき、私は息を呑んだ。
艶やかな黒豆の表面に、微かに、本当に微かにだが、「縫い目」が見えたのだ。
窓の外を見る。東の空が白み始め、初日の出が街を照らそうとしている。窓を開けると、凛とした冬の冷気とともに、なぜか懐かしい、六月の雨の匂いがふわりと鼻を掠めた。
世界は、一枚岩ではない。危ういバランスで、誰かが夜なべをして縫い合わせたパッチワークだ。
私は黒豆を口に放り込む。甘い煮汁とともに、世界の秘密を噛み締める。
「あけまして、おめでとう」
誰に言うでもなく、私は歪な世界に挨拶をした。