月明かりのボードゲーム
夏の夜は、息をするのも億劫なほど蒸し暑かった。古びたマンションの一室、窓を開けても生温い風が扇風機のように空気を循環させるだけだ。橘蓮の部屋は、いつも整然としていて、都会の喧騒から隔絶された静寂が漂っていた。壁には、蓮が最近出版した小説のサイン本がいくつも並んでいる。その全てに、悠馬の名前は、どこにも見当たらない。
「じゃあ、次はこの『銀河の迷宮』で勝負だ。お前、これ得意だろ?」
蓮が楽しそうに、しかしどこか挑発的にボードゲームの箱をテーブルに置いた。佐倉悠馬は、その箱に描かれた幻想的なイラストをぼんやりと見つめた。イラストレーターである自分とは、もう、住む世界が違うのだと、胸が締め付けられる。
「…まあ、昔はね」
悠馬の声は、いつにも増して小さかった。蓮は、悠馬の近況を気遣うように、しかし、その言葉の端々に、悠馬の停滞を突きつけられているような錯覚に陥る。
「悠馬は、最近どうなんだ?仕事は順調か?」
「…ぼちぼちだよ。蓮こそ、また新しい賞を取ったらしいじゃないか。おめでとう」
「ありがとう。でも、悠馬の絵も、いつか絶対評価されるって、俺は信じてるからな」
蓮の言葉は、本心からだろう。悠馬の才能を認め、尊敬している。だが、悠馬の内に秘めた、嫉妬という名の黒い感情には、まだ気づいていない。
ゲームは、悠馬の思わぬミスから、蓮の勝利に傾き始めていた。蓮は、何気ない勝利の喜びを口にし、悠馬の絵の才能を讃えた。しかし、その一つ一つの言葉が、悠馬の耳には皮肉に響いた。
(俺の才能なんて、とっくに枯れてるくせに…)
ふと、窓の外に目をやった。庭の草木に、月明かりが鈍く光っている。それは、かつて、二人が幼い頃、秘密基地で交わした約束の夜を思い出させた。あの頃は、こんなにも純粋に、互いを応援し合えたはずだった。しかし、その輝きは、今、二人の関係性の歪みを、より一層浮き彫りにするだけだった。
ゲーム盤の駒が、悠馬の指先で、無意識に弄ばれていた。蓮が、ふと、悠馬の絵について、真剣な表情で口を開いた。
「悠馬、最近、君の絵から、あの頃の勢いが感じられないんだよな。何かあったのか?」
それは、単なる感想ではなかった。悠馬の才能の枯渇を、蓮に見透かされたのだと感じた。積もり積もった嫉妬心と劣等感が、堰を切ったように溢れ出す。
「…君だって、昔はもっと…」
言葉が、喉の奥から無理やり引き出された。蓮が、かつて苦い挫折を味わった、あの頃のことを匂わせるような、忌まわしい言葉だった。蓮が、どれほどの苦しみを乗り越えて、今の彼があるのか。悠馬は、それを知っているはずなのに。
悠馬の言葉に、蓮の表情が一瞬、凍りついた。部屋の空気が、一気に張り詰める。ボードゲームの駒が、まるで二人の間の冷たい沈黙を映すように、テーブルの上で静止した。
「佐倉…俺は、ずっとお前の才能を尊敬してきた。お前が、俺のこと、どう思ってるか…今日、初めてわかったよ」
蓮の声は、静かだった。しかし、その静けさの中に、深い悲しみと、裏切られたような痛みが滲んでいた。悠馬の抱える嫉妬心の深さと、その醜さに、蓮はショックを受けたのだ。悠馬もまた、自分の醜い感情を露呈してしまったこと、そして、蓮の過去の傷に触れてしまったことに、激しい後悔に襲われた。
ゲームは、中断されたままだった。蓮は、窓の外に目をやった。夜明け前の光に照らされて、庭の草木についた露が、乾き始めているのが見えた。悠馬は、蓮の悲しそうな横顔を見て、自分の身勝手さと、友情という名の脆い絆を、自らの手で汚してしまったことを痛感した。
「もう遅いな」
蓮は、それだけを言い残し、静かに部屋を出て行った。残されたのは、悠馬一人。ボードゲームの駒が散乱したテーブルを見つめながら、彼は、自分の嫉妬心という名の毒が、どれほど友情を蝕んでしまったのかを、ようやく理解した。
それでも、窓の外には、夜明け前の静かな空が、ゆっくりと広がり始めていた。蓮は、もう以前のように、悠馬とは接することができないだろう。悠馬もまた、この夜の出来事を、心の奥底に抱えて生きていかねばならない。しかし、それでも、いつかまた、蓮とボードゲームができる日が来ることを、悠馬は静かに願った。それは、傷ついた関係の再生への、小さな、しかし確かな祈りだった。
友情は、嫉妬という名の露のように、朝日に照らされて消えゆく脆さを内包している。しかし、その跡には、新たな関係性を育むための、静かな大地が残る。登場人物は完全には救われないが、互いを理解しようとする一歩を踏み出す可能性を秘めている。ほろ苦い現実の中に、かすかな希望の光を見出す、温かい余韻。