白蛇の夢、飛鳥の土

奈良の正月は、どこか湿り気を帯びていた。飛鳥寺の軒端に積もる雪も、すぐに泥へと姿を変える。若手考古学者の佐伯隼人は、その泥濘に膝をつき、細心の注意を払って土器片を掘り起こしていた。

「これだ…」

指先が震えた。これまで見たこともない様式。表面を覆う、淡く、しかし確かな白蛇の文様。古代の息吹が、指先から全身へと駆け巡る。だが、その高揚感は、すぐさま冷たい現実に打ち砕かれた。現場監督の声が、無遠慮に空気を破った。

「佐伯さん、残念ですが、予算の関係で調査は来月末までです。延長は、まず無理かと」

限られた時間。それは、この謎めいた土器片が、未だ語らぬ物語を、永遠に封印してしまうことを意味した。

夜。調査現場に張られたテントは、外の静寂とは裏腹に、佐伯の寝息を嘲笑うかのように、不穏な音を立てていた。床板が、軋む。いや、違う。それは、何か硬いものが、じりじりと、床下を這いずるような音。佐伯は寝返りを打った。視界の隅に、白いものが、一瞬、ちらついたような気がした。気のせいだろう。しかし、鼻腔をくすぐる、湿った土の匂いが、妙に濃厚になっていく。

翌日、予算担当者の古川弥生が、現場を訪れた。都会的なスーツを纏った彼女は、この歴史の断片が眠る土地とは、まるで異質な存在だった。

「佐伯さん。進捗はいかがですか。予算の件、先方にはもう一度掛け合ってみますが、期待はしないでください」

その声には、感情の起伏が一切なかった。古川は、佐伯が掘り起こした土器片に目を留めた。その視線は、まるで獲物を品定めするかのように、鋭く、粘りつくようだった。

「これは…珍しい文様ですね。蛇ですか? 白蛇、とでも言うのでしょうか」

「ええ、おそらく。これまで発見されたものとは、様式が異なります」

佐伯は、古川の執拗な問いに、わずかな違和感を覚えていた。彼女の視線が、土器片の白蛇の目に吸い寄せられるように、一点を見つめている。そして、ふいに、佐伯は古川の瞳に、稲妻のような、一瞬の異様な光を見た気がした。それは、まるで、太古の何かが、彼女を通して、こちらを覗き込んでいるかのようだった。佐伯は、得体の知れない生理的な嫌悪感に襲われた。

調査が進むにつれ、佐伯の眠りは浅くなっていった。夢の中では、飛鳥時代の装束をまとった人々が、蛇の姿をした神に、ひれ伏していた。目覚めると、いつも、テントの入り口に、昨夜までなかったはずの、ぬるりとした白い粘液が付着していた。それは、まるで、巨大な何かが、夜の間に、ここを通り過ぎたかのような痕跡だった。

村の老人が、いつものように飄々とした口調で語った。

「この辺りはな、昔から『白蛇の祟り』があると言われとるんじゃ。蛇は、眠りし者を喰らうからのう…」

老人の含みのある笑みが、佐伯の背筋を凍らせた。

そして、その日が来た。調査打ち切りの日。佐伯は、どうしてもこの白蛇の土器片を、個人的にでも持ち帰りたいと、古川に懇願した。

「ダメです。規定ですから」

古川の返事は、冷たく、断固としていた。佐伯は、悔しさと、得体の知れない恐怖を抱えたまま、テントに戻った。その時、床下から、かすかな音が聞こえた。「カリカリ…」。硬いものが、土を掻くような音。それは、古川が去った後、現場の空気が、まるで重い水底に沈むかのように、淀んだ瞬間に始まったように思えた。

佐伯は、古川の目を盗んで、土器片を密かに持ち出そうと決意した。懐に忍ばせ、テントの外へ出ようとした、その瞬間。

テントの奥、暗がりの向こうに、ぼんやりとした白い影が揺らめいた。それは、人の形ではなかった。巨大な蛇の胴体のような、曖昧で、しかし圧倒的な存在感。異様な静寂の中、床板がゆっくりと軋む。佐伯は、自分が「何か」に、じっと監視されていることを悟った。影は、佐伯の僅かな動きに呼応するかのように、ゆらゆらと揺らめく。そして、耳の奥で、あの「カリカリ」という音が、執拗に、反響し始めた。

調査は、予定通り、あるいはそれよりも早く終了した。現場は封鎖され、静寂を取り戻した。しかし、佐伯の心には、持ち帰れなかった土器片への執着と、あの夜見た白い影への、消し去ることのできない恐怖が、深く根を下ろしていた。

数日後、佐伯の自宅。深夜、書斎で資料を整理していると、部屋の隅から、かすかな音が聞こえてきた。「カリカリ…」。それは、飛鳥の土から聞こえてきた、あの音だった。佐伯は、視界の端に、書棚の影が、ゆっくりと、しかし確かに、蠢いているのを感じた。それは、白蛇の文様そのものであり、決して消えることのない、日常に潜む「呪い」の始まりだった。その蠢きは、書棚だけでなく、壁の染み、床の木目にも、静かに広がっていくように感じられた。そして、佐伯は、もう、この部屋のどこにも、安全な場所はないのだと、悟ったのだ。

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