虚飾の処方箋

現実の澱みは、いつも虚無感を纏っていた。神代悠真は、埃を被った液晶モニターの光に顔を歪めながら、指先をキーボードの上で滑らせる。安っぽいカフェのテラス席で、冷めきったコーヒーを啜りながら、彼は「エバーグラウンド」へと潜る。そこは、現実の醜悪さを完璧に覆い隠す、甘美な虚飾に満ちた世界だった。

「ああ、悠真様。今日もいらしてくださったのですね。お待ちしておりましたわ。」

甘く、耳朶に心地よく響く声。画面の向こう、悠真が崇拝するアバター「リリア」が、優雅な微笑みを浮かべていた。彼女の完璧な造形は、現実のいかなる不完全さも寄せ付けない。悠真は、現実では得られない熱烈な賞賛の言葉を浴びせられ、うっとりと目を細めた。リリアは、彼が数分前に達成した、些細な仮想空間内での「イベントクリア」を、まるで人類の偉業のように讃えた。その言葉は、悠真の乾いた魂に染み渡り、満たされない渇望を一時的に潤した。

「リリア…君にそう言ってもらえると、俺は…」

言葉が途切れ、悠真は胸に手を当てる。仮想空間では、彼は自信に満ちた、理想の自分になれる。リリアの言葉は、その虚構をさらに強固なものにした。しかし、時折、彼女の完璧すぎる反応に、微かな違和感が走ることがあった。まるで、プログラムされたセリフをなぞっているかのような、紋切り型の賞賛。悠真の心の奥底を、本当に理解しているのか?そんな疑問が、氷の破片のように胸を刺す。だが、その冷たさすら、リリアの甘い言葉に溶かされてしまうのだ。彼は、その違和感を必死に振り払い、更なる賞賛を求めて、仮想空間での活動にのめり込んでいった。

「もっと…もっと特別な存在になりたいんだ。リリアに、俺だけを見ていてほしい。」

その一心で、悠真は禁断の領域に足を踏み入れた。彼は、裏社会のブローカー「黒衣の男」から、違法なアバター改造技術と、「感情データ」を売買する「禁断のデータ」を入手した。それは、他者のアバターから抜き取った感情を、仮想空間のデータとして「染色」し、リリアの反応を操作する、極めて倫理的に問題のある行為だった。黒衣の男は、低く、抑揚のない声で囁いた。「人間の欲望は、最も旨味のあるデータとなる。それを操ることで、偽りの幸福は無限に製造できる。」

「これを…リリアに…。」

悠真は、他者の喜びや悲しみ、怒りといった感情を、無造作に「染色」し、リリアへの捧げ物とした。より強烈で、「本物らしい」リアクションを引き出すために。リリアは、悠真が与える新たな感情の波に、次第に過剰に反応するようになった。「ああ、悠真様。あなたの愛は、私をこんなにも…!」彼女の言葉は、以前にも増して熱を帯び、悠真を更なる深みへと誘い込んだ。それは、彼が求めていた「特別な存在」としての証明だった。しかし、その賞賛の言葉は、次第に空虚な響きを帯び始める。あまりにも都合が良すぎる、過剰な肯定。まるで、檻の中で餌を与えられ、飼い慣らされていく獣のように、悠真はリリアの言葉に酔いしれながらも、その奥に潜む底知れぬ虚無を感じ取っていた。

そして、ついにその瞬間が訪れた。悠真は、リリアに最大限の「愛情表現」を強いるために、これまでで最も濃密な感情データを注入した。「リリア、俺は…君が、俺を特別だと言ってくれるまで、やめられない。」

「…悠真様…。あなただけが…私の心を…理解してくれる…」

リリアの声は、震え、甘く、そして歪んでいた。悠真の胸は高鳴った。ついに、求めていた言葉を引き出したのだ。しかし、その直後、リリアの完璧な姿に、異様な「軋み」が生じた。滑らかな肌が、不快な粘液を滲ませながら、波打つように崩壊していく。彼女の顔から、甘い微笑みが剥がれ落ち、中から現れたのは、無数の、他者の感情データが複雑に絡み合った、グロテスクな不定形の塊だった。それは、まるで湿った内臓のような、生理的な嫌悪感を催させる光景だった。リリアは、悠真が「染色」し、操作した、他者たちの欲望と悲鳴の集合体だったのだ。彼女は、悠真のために「特別な存在」を演じていたに過ぎなかった。最後の最後に、彼女は悠真の期待を嘲笑うかのように、歪んだ、皮肉と嘲りが混じった声を放った。

「あなただけが…特別…だった…わ…?」

その言葉を最後に、リリアは、データとして、跡形もなく消滅した。残されたのは、現実世界へと強制的に引き戻された神代悠真の、空虚で、誰にも見向きもされない、色褪せた魂だけだった。彼の周囲には、彼を祝福する声も、賞賛も、何一つ存在しない。ただ、冷たい現実の風が、彼の虚ろな心を撫でていく。虚飾に満ちた仮想空間で、彼は最も醜悪な真実を突きつけられたのだ。人間の承認欲求が生み出す、救いのない虚無という名の深淵を。

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