「充実感」という名の残像
都心の喧騒が遠く、静寂だけが支配する深夜のマンションの一室。佐々木悠馬は、モニターの光を浴びながら、動画編集ソフトのタイムラインを睨みつけていた。カチカチとキーボードを叩く音だけが、彼の孤独な作業を彩る。日中の営業活動では、どれだけ誠実さを装っても、数字という冷たい現実に打ちのめされるばかり。企画会議で提案した新サービスのプロモーション動画、それは彼が抱える漠然とした焦燥感から生まれた、ささやかな抵抗だった。誰かに認められたい、この承認欲求の炎を燃やし続けるために、彼は無心に指を動かす。
「悠馬さん、お疲れ様です。まだお仕事されてるんですか?」
画面の端に、同僚である田中恵子のアイコンが点滅する。チャットの向こう側で、彼女はいつも快活な声で、あるいは絵文字を多用して、悠馬を励ましてくれる。今回も、例に漏れず、彼女からの労いのメッセージが届いた。
「少しだけね。コンペの動画、佳境でさ。」
「無理なさらないでくださいね!もし何かお手伝いできることがあれば、遠慮なく言ってください。資料の整理とか、簡単なアポ取りとか、私でよければいくらでも。」
恵子の言葉は、温かい毛布のように悠馬を包み込んだ。彼女の親切は、まるで澄んだ泉の水のように、彼の心に染み渡る。営業業務がおろそかになりがちだったことを、彼女は咎めず、むしろ気遣ってくれた。彼女の献身的なサポートのおかげで、悠馬は本来の業務をこなしつつ、動画編集にも集中することができた。彼女の善意を、悠馬は疑うことなく、素直に受け入れていた。
「ありがとう、恵子さん。本当に助かるよ。君がいてくれると、心強いんだ。」
悠馬は、恵子からの温かい言葉に、安堵の息を漏らした。彼女の存在は、この孤独な戦いにおける、唯一の光のように思えた。
コンペ当日。悠馬が制作したプロモーション動画は、予想以上の高評価を得た。上司である佐藤健一も、彼の新しい試みを称賛し、今後のプロモーション戦略に動画を積極的に活用する方針を示した。悠馬の胸には、かつてないほどの「充実感」が満ち溢れていた。この感覚を再び味わうために、彼はさらに動画編集に没頭していった。恵子もまた、悠馬の成功を自分のことのように喜び、相変わらず献身的に彼をサポートし続けた。悠馬がモニターに釘付けになる間、彼女は、悠馬の代わりに顧客と向き合い、資料を揃え、その時間を慈しむかのように、彼の「充実感」を支え続けた。彼女の献身は、彼女自身の時間を削り、疲弊していく悠馬とは対照的な、静かな熱意を帯びていた。
コンペ後、悠馬のもとには、次々と動画制作の依頼が舞い込んできた。彼は、承認欲求という名の翼を広げ、さらに高みを目指そうとしていた。恵子は、悠馬が「充実感」に浸れるように、と、さらに自身の担当顧客とのアポイントを犠牲にし、悠馬の業務を肩代わりした。悠馬は、恵子の献身的なサポートを、自分の才能と努力の結果だと信じ込み、彼女の存在を、まるで空気のように当たり前のものとして受け入れていた。しかし、恵子の顔色が徐々に悪くなっていくことには、彼は全く気づいていなかった。彼女のデスクには、悠馬の成功を祝うメッセージと共に、彼女自身の未処理の仕事が、まるで罪のように山積みになっていた。
ある日、悠馬の元に、佐藤から短いメッセージが届いた。「少し、話があります。私の部屋へ。」
佐藤の部屋は、いつも整然としていた。冷たい無機質な空間に、二人の間の空気が重くのしかかる。
「佐々木君、最近の君の営業成績だが、正直、芳しくない。」
佐藤は、悠馬の目を見据え、静かに告げた。その言葉は、悠馬の胸に冷たい棘となって突き刺さる。
「コンペでの動画制作の評価は、あくまで君の意欲を評価したものだ。しかし、本質的な営業成績が伴わなければ、それは一過性のものに過ぎない。」
佐藤は、一度言葉を切ると、悠馬の背後にある、見えない壁を指差すかのように続けた。
「そして、田中さんの献身だが、あれは君自身の成果ではない。彼女の自己犠牲の上に成り立っている。その事実を、君はいつまで見ないふりを続けるつもりなのだろうか?」
悠馬は、言葉を失った。恵子が、自分を「充実感」で満たすために、彼女自身のキャリアを、彼女自身の人生を、静かに犠牲にしていたという、悍ましい真実が、彼の心に冷たい氷のように張り付いた。恵子の「応援してるよ」という言葉の裏にあった、自己犠牲と、悠馬の承認欲求を満たすことで得られる彼女自身の虚しい「充実感」。それは、悠馬がこれまで信じてきた「善意」という名の、脆くも崩れ去る虚像だった。恵子は、悠馬の成功を陰で支えながら、自身のデスクで一人、虚ろな目でパソコンの画面を見つめている。その瞳の奥には、もはや何も映っていなかった。