鋼鉄の約束

鋼鉄の硬度が、時間の経過と共に鈍化していく。佐伯浩一は、古びた橋の図面を前に、その事実を冷徹に認識した。建設会社に籍を置いて三十年。営業畑を歩み、数々の受注を勝ち取ってきた。しかし、この橋は、特別だった。地域住民にとって、それは単なる生活道路ではなかった。かつて、この町が活気に満ちていた頃の、確かな証だった。

「課長、この橋の補修、来期の最優先案件にすべきです。地域経済への影響、資料にまとめました。」

田中課長は、部下の報告を鼻で笑った。デスクに山積する他部署からの資料。どれもこれも、採算が見込めない案件ばかりだ。

「佐伯さん、現場はわかってるんだ。今は、あの再開発プロジェクトに集中したい。橋?あれは、まだ数年持つだろう。数字にならん話は、後回しだ。」

効率、利益。組織が呼吸する空気は、その二つの言葉で満たされていた。佐伯は、図面を握りしめ、静かに部屋を出た。地域住民が、橋の老朽化によって被る経済的損失。それは、数字の羅列では表現しきれない、生活そのものの圧迫だった。

補修工事の遅延は、地域住民の間に不満の火種を蒔いた。毎日のように、佐伯のもとには、橋の早期補修を訴える声が寄せられた。そんな中、佐伯は、会計資料の些細な矛盾に気づいた。補修予算が、当初の計画よりも削減されている。しかし、その差額が、どこにも見当たらないのだ。部下の佐藤健太に、過去の資料を精査させた。

「佐伯さん。この橋の初期設計資料、見つけました。安全対策費用に関する、若干の記載漏れというか…修正指示のようなものがあります。」

佐藤の声は、感情を排していた。あたかも、数学の定理を証明するかのような淡々とした口調。佐伯は、その言葉に、背筋が凍るのを感じた。設計上の「弱点」。それは、特定の条件下で、橋が崩落する可能性を示唆していた。そして、その弱点を補うための費用が、本来計上されるべきだったのだ。

「それは、会社として、公式に認められた情報か?」

「いえ…これは、当時の主任技術者の個人的なメモのようです。しかし、その技術者は、この橋の完成後、すぐに退職しています。」

佐伯は、会社の論理と、目の前にある現実との乖離に、激しい吐き気を覚えた。長年、組織の論理に従ってきた。しかし、それは、人命や地域社会の生活といった、もっと根本的なものを犠牲にするための論理だったのだろうか。

地域住民の代表、橋本雅彦が、佐伯のもとを訪れた。彼の目は、地元への強い愛着と、不正に対する怒りに燃えていた。

「佐伯さん、橋の件、どうにかならないのかね。このままでは、我々の生活が立ち行かなくなる。」

佐伯は、橋本に、設計上の問題と、会社がそれを隠蔽しようとしている可能性を、慎重に伝えた。橋本は、静かに頷いた。

「事実を明らかにする必要がありますな。」

その頃、田中課長は、佐伯の社内での動きを察知していた。佐伯の行動は、組織にとって、排除すべき「ノイズ」だった。

「佐伯さん。最近、どうも無理がたたっているようだ。少し、休んだ方がいい。会社としても、君のこれまでの功績を考慮して、円満な退職を勧告したい。」

それは、事実上の解雇宣告だった。会社は、佐伯が掴んだ証拠を隠滅し、安全基準を大幅に緩和した新たな補修計画を、強行しようとしていた。経済合理性。その言葉が、冷たい刃となって、佐伯の胸を貫いた。

佐伯は、退職勧告を拒否した。彼は、最後の手段に出た。崩落の危険性を示す設計図と、それを隠蔽しようとした会社の内部資料。それらを、匿名でマスコミにリークした。報道は、地域住民の不安を煽る形で、橋の補修工事の遅延を大きく取り上げた。専門家は、経済合理性の観点から、安全基準の緩和は避けられないとコメントした。佐伯の告発は、個人の正義感の空回りとして、静かに処理されていった。社会は、構造的な問題を直視しようとしなかった。

数日後、佐伯は、テレビのニュースで、その「鋼鉄の約束」が象徴する橋が、予期せぬ豪雨によって、静かに崩落する映像を、冷徹な表情で見ていた。彼が守ろうとした「夢」は、無関心という名の、巨大な重みに押し潰された。それは、経済合理性という名の、構造悪がもたらした、必然の結末だった。橋の残骸は、静かに、しかし力強く、社会の欠陥を告発していた。

この記事をシェアする
このサイトについて