量子モラトリアム

ラボの蛍光灯が、虚ろに光る。数式が、宇宙の深淵のように海斗の視界を埋め尽くす。量子力学の「観測問題」。観測するまで、あらゆる可能性が重ね合わされている。シュレディンガーの猫が、箱の中で生と死の奇妙なダンスを踊っているように、海斗の心もまた、渚への想いと、それを口にできない己の臆病さとの間で、不確定な状態に置かれていた。この街は、潮の香りと共に、どこか諦めを帯びた空気が漂う。古びたモノレールが、寂れた街並みを縫うように走る。その音すら、海斗の胸を締め付ける。渚の鮮魚店。潮の香りが鼻腔をくすぐり、隣には、太陽のように明るい渚が立っている。彼女の笑顔は、海斗の心を溶かす温かさを持つが、同時に、その眩しさに目を焼かれるような痛みも伴う。この募る想いを、どうして口にできないのか。己の弱さに、内側から掻きむしられるような怒りが燃え上がる。この「観測されない」まま重ね合わされた、彼自身の可能性が、渚の笑顔と重なって、苦しかった。

「海斗ー! ちょっと手伝ってくれない?」

渚の声が、祭りの喧騒を切り裂いて飛んでくる。地元の祭りの実行委員長。その言葉に、海斗の心臓が跳ね上がった。彼女の隣には、祭りの準備で忙しく働く、地元の青年がいた。屈託なく笑い合う二人の姿が、海斗の目に焼き付く。それは、研究室で幾度となく目にしてきた、「重ね合わせ」が崩壊する予兆だった。渚の、自分以外の誰かとの親密な関係。その「隠された可能性」が、海斗の心を激しく掻き乱す。嫉妬だ。燃え盛るような嫉妬が、己の「観測されない」現状への怒りと共に、全身を駆け巡った。ああ、なぜ、俺は、ただ見ていることしかできないんだ!

「君の感情が、観測を歪めているんだ。海斗。どちらかを選べ。」

教授の声は、氷のように冷たい。研究の行き詰まり。渚への募る想い。その板挟みに、海斗の精神は引き裂かれそうだった。一方、渚の心もまた、嵐のように激しくなっていた。海斗の煮え切らない態度。祭りの準備で、否応なく関わる青年の、気遣うような眼差し。抑えきれない感情の奔流が、彼女の胸を締め付ける。雨が降り始めた。モノレールの窓の外を、寂れた街並みが流れていく。車内の空気が、二人の間に張り詰める。視線が絡み合う。言葉にならない想いが、窓の外の景色と重なり、息苦しいほどの熱量を帯びていく。地の文すらも、彼らの内なる叫びを、そのまま映し出すかのようだ。

祭りの前夜。雨は、街を洗い流すかのように、激しく降りしきっていた。海斗は、渚の鮮魚店へと向かう。店の奥からは、祭りの準備で疲労の色を見せる渚と、彼女を気遣う地元の青年との、親密な空気が漂ってくる。その光景に、海斗の感情は、ついに臨界点を超え、爆発した。

「渚! なぜ、あいつと…!」

叫び声だった。内側から迸る、抑えきれない激情の奔流。

渚は、海斗の激情に一瞬、戸惑った表情を見せた。しかし、すぐにその瞳に、隠しきれなかった、海斗への燃え盛るような想いと、彼への嫉妬が宿る。

「あなただって、私に隠してること、あるんじゃないの!?」

激しい雨音と、互いの叫び声が、鮮魚店の狭い空間に響き渡る。海斗は、渚の「隠していること」という言葉に、彼女もまた、自分と同じように「観測されない可能性」を抱え、葛藤していたのだと悟った。教授の言葉が、脳裏を駆け巡る。「君の選択が、世界の形を決めるんだ」。海斗は、渚の顔を掴み、全身全霊の叫びで問う。

「渚! 俺を選べ! 今、ここで! 決めてくれ! 俺の観測者になれ!」

渚は、海斗の燃え盛る瞳に見つめられ、ついに感情の堰が壊れた。彼女は、海斗の腕を掴み返し、全身で拒絶と愛情をぶつけ合うように叫ぶ。

「海斗、あなただって……! 私の、この気持ちを、観測してよ!」

二人の感情が、臨界点を超え、互いの存在そのものを揺るがすような、究極のぶつかり合いが始まる。雨音、モノレールの軋み、潮の匂いが混ざり合い、彼らの感情の嵐となって読者の五感を打ちのめす、その刹那。

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