修学旅行の夜、経理部からの手紙
ひんやりとした夜の空気が、肌に張り付くようにまとわりつく。高校二年生の佐倉陽菜は、苦手な修学旅行の夜、古びた旅館の部屋の片隅で、心臓の音だけがやけに大きく響いているのを感じていた。トランプのカードをめくる音、クラスメイトたちの賑やかな声。そのすべてが遠い世界の出来事のように感じられるのは、ただ一人、橘蓮の存在が、陽菜の全身を支配しているからだ。視線が合うだけで、頬が熱くなり、指先が微かに震える。そんな、自分でもどうしようもないほどの意識の熱を、蓮も同じように感じているのだろうか。ふと、蓮が席を外した隙に、陽菜の視線は、彼の机の上に置かれた一枚の紙切れに吸い寄せられた。それは、明日の班別行動で使うらしい、地図の裏に走り書きされた、見慣れないメモだった。
「経理部 〇〇様へ」
見慣れない宛名と、「明日、〇時 〇〇にて」という、秘密の約束を匂わせる文字。経理部? 蓮が、誰かと、こんな風に内緒で連絡を取り合っているなんて。陽菜の胸の奥が、ざわざわと騒ぎ始める。まるで、冷たい水滴が、じわりと染み込んでくるような感覚。蓮が席に戻ってきて、メモに気づいた陽菜の顔を見て、一瞬、驚いたような、でもすぐにいつもの、感情の読めない無表情に戻る。その、ほんの一瞬の揺らぎ。陽菜の心臓は、さらに速く、激しく鼓動を打った。蓮の視線が、陽菜の震える指先に触れそうになり、陽菜は慌てて手を引っ込めた。その冷たい指先が、まるで火傷でもしたかのように熱かった。
夜も更け、眠れない陽菜は、一人で旅館の廊下をさまよっていた。ひんやりとした空気が、肌を撫でる。軋む床の音、遠くから聞こえる波の音。すべてが、この非日常の空間を際立たせる。ふと、ロビーの隅にある「リビング」と書かれた、共有スペースのドアから漏れる明かりに気づいた。誰かいるのだろうか。恐る恐る近づくと、そこには、蓮が一人、静かに座っていた。彼の隣には、先ほどのメモと同じ、経理部宛の封筒らしきものが置かれている。蓮は、陽菜の気配に気づき、ゆっくりと顔を上げた。その表情は、いつものクールな仮面の下で、どこか、迷っているようにも見えた。陽菜の指先が、ふと、部屋の入り口に掛けられた、冷たい鉄製のドアノブに触れる。その金属の冷たさが、陽菜の指先から、じわりと腕へと伝わっていく。
いてもたってもいられず、陽菜は、震える声で蓮に話しかけた。「あの、メモ…」。蓮は、少し驚いた顔をした後、静かに口を開いた。「これは、父さんの…」。経理部で働く父の頼まれごとで、明日の朝、旅行先の会社を営む父の知人に、書類を届ける予定だという。陽菜は、てっきり、自分との関係を疑われたのかと、勝手に勘違いしていたことに気づき、顔に熱が集まるのがわかった。まるで、太陽に焼かれているかのように、熱い。蓮は、陽菜の赤くなった頬を見て、ふ、と小さく笑みを漏らした。その瞬間、二人の間には、言葉にならない、温かい空気が流れる。まるで、春の陽だまりのように、じんわりと温かい。蓮は、陽菜の手に、そっと自分の手を重ねた。その指先から伝わる、確かな体温に、陽菜は息を呑む。蓮の指が、陽菜の震える指先を、優しく、包み込むように触れた。
蓮は、陽菜の手を握ったまま、囁くように言った。「明日の朝、早いんだ。でも、陽菜と話せてよかった。」陽菜は、蓮の温かい手に包まれ、全身に、心地よい痺れのような感覚が広がっていくのを感じた。経理部宛のメモから始まった、予期せぬ夜の出来事。それは、互いの秘めた想いが、言葉ではなく、触れる体温で、確かに通じ合った、恋の始まりを告げる特別な瞬間だった。二人の指先が、触れ合ったまま、静かなリビングの明かりだけが、二人の時を、優しく、包み込むように照らしていた。陽菜は、蓮の指の温かさを確かめるように、そっと、指を絡めた。その指先から伝わる熱が、陽菜の心に、確かな予感となって、静かに灯っていく。