潮満ちる書斎
墨痕淋漓たる寂寥が、その書斎を支配していた。海辺に孤絶した古家の一室。僕、汐見が足を踏み入れたそこは、時間の澱が積もる海底のようだった。書架に眠る無数の背文字は、沈黙する珊瑚礁にも似て、旧友である槐(かい)は、その静謐の中心に座す、深海の主のようであった。
「よく来たな」
彼の声は、凪いだ水面のように抑揚を欠いていた。音信を絶った友を案じる僕の心を見透かすように、彼は書斎の奥、月光を淡く孕む一枚の障子を顎で示した。
「あれには触れるな。いや、観測すらしてはならない」
その言葉は、まるで古代の神官が下す禁忌の託宣めいていた。
「あれは可能性の奔流だ。シュレディンガーの猫が、死と生の重ね合わせであるように、あれは無数の『ありえたかもしれない世界』が畳み込まれた特異点なのだ。そして、観測という碇を下ろした瞬間、自己という名の岸辺を洗い流す津波と化す」
僕は、彼の衒学的な比喩の羅列に眩暈を覚えた。彼の精神の均衡が、この孤絶した環境でついに臨界を超えたのだと、理性は囁く。だが、その言葉には、論理という名の骨格に狂気という名の肉を纏わせたキマイラのごとき、抗いがたい説得力が宿っていた。
「プロメテウスが天上の火を盗み、神々の怒りを買ったように、我々の『観測』という行為は、宇宙の摂理に対する原罪なのだよ、汐見。世界は観測されることで初めて確定する。ならば、観測者とは、無限の可能性の中からたった一つの現実を断罪する、傲慢な処刑人ではないのか」
槐は静かに語り続ける。
「あの障子の向こうは、満潮の時刻になると、我々の好奇心という錨が下ろされるのを待っている。知ることへの渇望が、存在の融解を招くとも知らずに」
彼の言葉を詩的な妄想と断じるには、この部屋を満たす空気が、あまりにも異質に変容し始めていた。窓の外で、満ち来る潮が刻一刻と咆哮を増していく。その響きは物理的な音の波を超え、あたかも存在論的な律動となって、書斎そのものを揺さぶっていた。
壁の染みが、陽炎のようにゆらめいた。刹那、そこに人影が見えた気がした。知的な探求者の貌、絶望に歪む貌、諦念に沈む貌。過去、この部屋で禁忌を犯したであろう無数の観測者たちの残滓が、時間の地層から滲み出しては消える幻影。僕自身の輪郭が、この空間の歪みと共に曖昧になっていく感覚に、言い知れぬ恐怖が内側から込み上げた。
やがて、潮騒が部屋の隅々にまで飽和し、最高潮に達した瞬間、世界から一切の音が消えた。完全なる静寂。真空の沈黙が、僕の内なる純粋な好奇心を、まるでレンズのように一点へと収斂させていく。
知りたい。あの障子の向こうに、何があるのか。
その渇望が臨界に達したのを見計らったかのように、槐が静かに口を開いた。
「真実などない。あるのは解釈だけだ」
それは制止ではなかった。むしろ、自由という名の深淵へと突き落とす、最後の祝詞だった。解釈の自由。そうだ、僕が何を見ようと、それは僕自身の解釈に過ぎないのだ。その確信は、呪縛からの解放であると同時に、僕を憑かれたように突き動かす引き金となった。
僕は立ち上がり、まるで永劫の時を経てようやく辿り着いた巡礼者のように、禁じられた障子へと手を伸ばした。
――そして、開いた。
次の瞬間、僕は、書斎の主として、あの黒檀の椅子に座っている自分に気づいた。目の前の畳には、心配そうな、それでいて知的な探求心に目を輝かせた一人の訪問者が立っている。かつての僕自身と、生き写しの男が。
無限の疲労と、ウロボロスの蛇が己の尾を喰らうがごとき諦念が、僕の全身を支配した。僕は、新たな『汐見』に向かって、ただ呟く。
「…また、君か」