夏祭りの霊柩車

夏の終わりの、むせ返るような潮の香りが、佐藤恵の鼻腔をくすぐった。数年ぶりに降り立った故郷の海辺の町は、昔と何一つ変わっていないはずなのに、今はどこか遠い、手の届かない場所に思えた。祖母の葬儀のために戻ってきたのだ。幼い頃、この町で母や祖母と過ごした日々の記憶が、潮風に乗って蘇る。しかし、今はもうそこにいない人々の気配が、恵の胸にぽっかりと穴を開けたような、小さな空虚感をもたらしていた。

弟の健一は、相変わらず忙しそうに家業の魚屋を切り盛りしていた。葬儀の準備で慌ただしい日々の中、恵は祖母の遺品整理を始めた。埃っぽい箪笥の引き出しを開けるたびに、祖母の温かい手が、恵の肩にそっと置かれるような気がした。

ある日、遺品の中から古いアルバムが出てきた。そこには、恵がまだ幼かった頃、祖母と楽しそうに笑っている写真がたくさんあった。砂浜で貝殻を拾う姿、夏祭りの浴衣姿。しかし、その中に一枚、不自然に破られた写真があった。それは、恵がまだ小さかった頃、海を背に家族三人で写った写真だった。破られた部分には、恵の母親が写っていた。無理やり引き裂かれたような、乱暴な破り方。そこに込められた、激しい感情の強さを感じ取り、恵は胸騒ぎを覚えた。いったい、誰が、なぜ、こんなことを。

葬儀の日。親戚が集まり、静かに弔いの言葉が交わされる。その最中、一台の霊柩車が、ゆっくりと町を走り抜けていった。その光景を見て、恵はふと、幼い頃の記憶を鮮明に思い出した。あの時も、同じように霊柩車が町を走り抜けた。その時、母が泣いていたこと。そして、その数年後に、母が家を出て行ったことを。

「健一、母さんのこと、覚えてる?」

葬儀が終わった後、恵は健一に尋ねた。健一は、露天の魚屋台で、慣れた手つきで魚を捌きながら、ぶっきらぼうに答えた。

「母さんのことは、もういいんだよ。昔の話だ。」

その冷たい突き放し方に、恵は胸を締め付けられた。しかし、祖母の遺品を整理していると、刺身包丁と共に、古びたレシピ帳が出てきた。そこには、母がよく作っていたという、ある刺身の調理法が、祖母の丁寧な字で記されていた。母の得意料理。恵は、祖母が母のことを、ずっと気にかけていたのだと悟った。

その夜、恵は一人、祖母の部屋で遺品を整理していた。引き出しの奥から、一枚の封筒が見つかった。中には、母からの手紙が入っていた。差出人はなく、日付も曖昧。手紙には、母が家を出て行った理由、そして、恵と健一への変わらぬ愛情が綴られていた。しかし、その言葉の端々には、夫への複雑な感情や、自身の人生への諦めが滲み出ていた。「子供たちのために、私は身を引くしかない」という言葉の裏に、母の身勝手さと、それでも失われなかった愛情が、痛々しいほど同居しているのを感じた。恵は、祖母が母を気遣い、その手紙をそっと隠していたのだと悟った。そして、あの破られた写真のことも。母は、恵と健一の記憶から、辛い過去を消し去ろうとしていたのかもしれない。

葬儀が終わり、恵は都会へ帰る準備を始めた。駅まで見送りに来た健一は、どこか寂しそうな顔をしていた。

「あの写真のこと、健一、知ってたんでしょ?」

恵が問うと、健一は静かに頷いた。

「母さんのことは、俺も、忘れたかったんだ。二人とも、辛い思いをするから。でも、お袋も、俺たちを愛してたんだって、あの時、ばあちゃんが言ってた。」

ぶっきらぼうな言葉の裏に、健一が抱えていた葛藤と、恵への深い愛情が垣間見えた。

「母さんが、あの刺身、好きだったんだ。」

健一がぽつりと呟いた。恵は、母が残した手紙を、健一にも読ませた。二人は、互いの胸に抱えていたわだかまりを、静かに溶かしていった。夏祭りの夜空に、遠くで花火が打ち上がる音が聞こえた。その光が、海面に映り、きらめく。恵は、祖母が愛したこの町で、失われた家族の記憶と、新たに芽生えた絆を感じていた。完全には癒えない傷跡。しかし、明日を生きるための、確かな温もりを胸に、恵は再び都会へと旅立っていく。それは、ほろ苦くも温かい、再生の予感に満ちた、静かな祈りだった。

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