山道に咲く、もう一つの花
都会の喧騒に疲弊しきった心身を癒すべく、悠馬は人里離れた山奥の一軒家へと移り住んだ。 鬱蒼とした森に囲まれたその場所は、彼が長年夢見ていた静寂と、手つかずの自然そのものだった。週末になれば、彼は愛用のバイクに跨り、埃っぽい山道をどこまでも走り抜けた。風が頬を撫で、土と草の匂いが鼻腔をくすぐる。そんな悠馬の日常に、近所に住む静枝という老婦人が、静かに、しかし確かに、彩りを添えるようになった。彼女は、悠馬が手を入れ始めた庭の手入れについて、惜しみなく知識を授けてくれた。その穏やかな物腰と、庭に咲き誇る瑞々しい花々には、悠馬はどこか心を安らげている自分がいた。
しかし、その平穏は、いつしか微かな、しかし執拗な違和感に侵食されていく。庭に、図鑑にも載っていない、見たこともない形状と色合いの奇妙な花が、ひっそりと、しかし確実に、その数を増やし始めたのだ。その姿は、どこか異質で、しかし同時に、抗いがたい魅力を孕んでいた。静枝は、悠馬がその異様な花に首を傾げるたびに、「あら、自然の恵みよ」と、ただ微笑むだけだった。
ハイキングの折にバイクで通る山道でも、異変は静かに進行していた。以前はなかったはずの、苔むした奇妙な石碑が道端に佇み、その表面には、解読不能な文様が刻まれている。あるいは、木々の間に、意味ありげな、しかし用途の判別できない木彫りの人形が、無造作に掛けられている。風もないのに、木々がざわめき、葉擦れの音が不自然に響き渡る。そして、時折、腐臭とも、甘い芳香ともつかない、鼻腔の奥をねっとりと這うような、形容しがたい異臭が、ふいに漂うのだ。
庭の花は、悠馬の無関心とは裏腹に、勢いを増していった。日没後、それらは燐光を放つかのように、鈍く、妖しい光を放ち始める。夜の静寂の中、その光は、まるで生きているかのように明滅し、独特の、脳髄を直接揺さぶるような甘い香りを放つのだった。悠馬は、その香りに、抗いがたいほど惹きつけられていく。夜ごと、彼は庭に佇み、その光と香りに身を浸すようになった。静枝は、そんな悠馬の姿を、静かに、しかし確かに、見守っていた。「その花、随分と元気に育っているね」彼女の声は、いつも穏やかで、しかし、その言葉の端々には、悠馬には理解できない、深淵のような響きがあった。
ハイキングコースの道標が、いつの間にか、普段は通らない、鬱蒼とした森の奥へと誘うように、奇妙な方向を指し示すようになった。バイクのエンジンの調子も、次第に悪化していく。異音が混じり、回転数が不安定になる。しかし、何度点検しても、その原因は特定できなかった。むしろ、エンジンの回転数に合わせて、微かに、耳元で囁くような、幻聴めいた音が混じる気がした。それは、まるで、バイクそのものが、何かを訴えかけているかのようだった。
悠馬の日常は、庭の花の香りに包まれ、次第に溶けていった。思考はぼんやりとし、現実と夢の境界線は曖昧になっていく。床の軋む音は、もう単なる家の老朽化によるものではない。それは、まるで、すぐ隣を、誰かが、ゆっくりと歩いているかのような、生々しい気配を纏っていた。壁の向こうから聞こえる囁き声は、彼の名前を、執拗に、しかし甘く、呼んでいるかのようだ。視界の隅をよぎる黒い影は、単なる光の加減では片付けられない、確かな「何か」の存在を告げていた。だが、それらはもはや恐怖ではなかった。むしろ、そこには、奇妙な安堵感すら芽生え始めていた。静枝は、悠馬の変容に気づいているようだったが、何も言わなかった。ただ、ある日、彼女の家の庭に、悠馬の庭と同じ、あの奇妙な花が、一面に咲き誇っているのを目撃した。
ある夜、庭の花の、一層濃密になった香りに導かれるように、悠馬は無意識のうちにバイクに跨っていた。エンジンは、普段とはまるで違う、滑らかな回転音を奏でる。まるで、バイク自身が、悠馬の意思を汲み取り、自ら走り出そうとしているかのようだ。エンジンの回転音に、人間の囁き声のようなものが、より一層鮮明に混じり始める。ハンドルに伝わる奇妙な振動は、まるで、生き物の脈動のようでもあった。
山道を進むにつれ、道標は、以前とは比べ物にならないほど、険しい、鬱蒼とした森の奥へと悠馬を誘い込んでいった。木々の間から差し込む月明かりさえも届かない、深い闇の中。そこで、悠馬は息を呑んだ。そこには、無数の、あの奇妙な花が、まるで宝石のように咲き乱れていた。その中心に、静枝が、静かに佇んでいる。彼女の周りだけ、闇が薄らいでいるかのようだった。
悠馬は、静枝の隣に立ち、無数の花に囲まれた。香りは、もはや鼻腔を刺激するものではなく、全身を包み込み、意識をゆっくりと、しかし確実に、溶かしていく。静枝は、悠馬に微笑みかけた。その表情は、今まで見たこともないほど穏やかで、そして、どこか超越的な光を宿していた。「ここが、一番心地よい場所だから」彼女の囁きは、悠馬の鼓膜を震わせ、そして、彼の思考そのものを、静かに、優しく、奪い去っていった。
翌朝、悠馬の家には、誰もいなかった。庭の花は、さらに勢いを増し、その甘い香りは、まるで意思を持ったかのように、山全体を包み込もうとしていた。バイクは、庭の隅に、静かに、しかし確かに、停められていた。その異様な姿は、あたかも、永遠にそこにあるべきもののように、風景に溶け込んでいた。しばらくして、ハイキングに訪れた別の人間が、その奇妙な花と、庭の隅に置かれたバイクに、一瞬だけ目を留める。しかし、その光景は、すぐに彼の意識から滑り落ち、まるで最初から存在しなかったかのように、忘れ去られてしまう。山道には、静かに、しかし確かに、異質な「営み」が、悠馬という存在すらも飲み込み、続いている。その甘い香りは、いつまでも、いつまでも、消えることはないだろう。