夏の終わりの大晦日、妖精が見せたもの
大晦日。それがどうして、こんなにも暑いのだろう。アスファルトから立ち上る陽炎が、街の輪郭を曖昧に歪ませていた。本来なら、窓の外は灰色の空に雪が舞うはずなのに。佐藤陽菜は、埃をかぶった古いアルバムを広げ、幼い頃の夏の日々をなぞっていた。日焼けした腕、麦わら帽子、ラムネの瓶。輝かしい記憶ばかりが、鈍く光る。
「姉ちゃん、俺、出かけるから」
階下から、弟の健一の声が響く。陽菜はアルバムを閉じ、ため息をついた。冬の朝に、初詣にでも行くのだろうか。相変わらず、掴みどころのない男だ。彼女の、夏に囚われた心のうちなど、とうに諦めてしまったのだろう。
「…うん。気をつけてね」
返事をする声は、自分でも驚くほどか細かった。アルバムの隅に、幼い頃の拙い文字で書かれたメモが挟まっていた。「妖精さんへのお願い」。そこには、こんな一文があった。「夏が、終わらなく、なりますように」。子供らしい、無邪気な、そして叶わぬ願い。それを眺めていると、ふと、部屋の空気が重くなった。窓の外が、ありえないほど鮮やかな夕焼けに染まる。遠くで、懐かしい、蝉の声が聞こえた気がした。気のせいだ。こんなはずはない。それでも、陽菜の心臓は、得体の知れない高揚感に、早鐘を打っていた。
健一が出て行った後、陽菜は意を決して家を出た。街は年末の喧騒に包まれているはずなのに、彼女の目には、陽炎に揺れる夏の風景が重なって見える。公園の、古びたブランコ。風が、夏の終わりのような、甘く切ない香りを運んできた。それは、彼女がずっと「妖精」と呼んでいた、あの喪失感そのものの気配だった。子供の頃の願いが、この季節外れの気配と、静かに共鳴しているような気がした。
公園の奥、雑草に埋もれかけた場所に、二人が幼い頃に埋めたタイムカプセルがあった。陽菜は、震える手でそれを掘り起こす。中には、色褪せたビー玉、傷ついた玩具、そして、彼女が書いた「夏よ、永遠に」と書かれた手紙が入っていた。ふと、弟の声が蘇る。子供の頃、この手紙を読んだ健一は、何を思ったのだろう。「姉ちゃん、ずっと夏がいいって言ってたもんな。でも、ずっと夏じゃなくてもいいって、いつか分かったんだろ?」あの時の、ぶっきらぼうな言葉の裏に隠されていた、静かな優しさ。陽菜は、子供じみた自分の身勝手さと、それを受け止めようとしてくれた弟の姿を思い出し、胸が締め付けられた。永遠の夏を願うことの、愚かさと、そして、それでも変わらない、夏への愛しさ。その複雑な感情の奔流の中で、陽菜はただ立ち尽くすしかなかった。
陽菜は、タイムカプセルをそっと元の場所に戻し、土をかけた。夏の気配は、いつの間にか消えていた。肌を刺すのは、冷たい冬の空気。それでも、陽菜の心には、子供の頃の願いが叶わなかったことへの切なさとともに、健一の言葉、そして「夏が終わるからこそ、次の夏が待ち遠しい」という、冬ならではの静かな希望が芽生えていた。彼女は、いつか来る夏を、そしてその次の夏を、弟と共に迎えることができるだろうと、静かに確信した。もう、「永遠の夏」を願うことはない。ただ、来るべき季節を、健一と共に、穏やかに生きていくだけだ。陽菜の顔には、ほろ苦い、しかし確かな明日への微笑みが浮かんでいた。