魔剣通信
埃が舞う。時折差し込む光が、それを金色に染め上げた。佐伯聡は、亡き妻ミカが遺した雑誌の山を、無言で仕分けていた。ミカはSF雑誌の編集者だった。彼女の遺品には、未整理の雑誌が夥しく残されている。その中の古い一冊。背表紙は擦り切れ、ページは黄ばんでいた。その片隅に、一枚の紙が挟まっていた。ミカが、誰かと交わしたらしい、暗号めいたメモ。「深淵の扉を開く」「星辰を繋ぐ」「虚無を紡ぐ」。佐伯は、彼女の遊び心だろうと考えた。
古書店「時の栞」は、今日も静かだった。個性的な品揃えで知られるこの店に、奇妙な男が訪れたのは、そんなある日のことだ。男は、ミカが愛読していたという、あの古いSF雑誌を指差した。「あの雑誌の、ある記事について、お尋ねしたい」。男の目は、獲物を狙う蛇のように、佐伯を射抜いた。 「連絡帳…そこに書かれた言葉は、一体何を意味する?」 男は、雑誌の特定のページに書かれた「連絡帳」の記述について、何かを知っているかのように、佐伯を問い詰めた。その声は、囁くように掠れていた。
佐伯は、男の異常さに警戒しながらも、ミカの真意を探ろうとしていた。連絡帳の言葉は、現実離れしている。だが、ミカが雑誌に書き残したメモには、連載小説の遅延や、作者からの不可解な原稿の急変を示唆する断片的な言葉が散見される。「遅延=儀式」「急変=深淵の囁き」。佐伯は、ミカが言葉遊びとして連絡帳に記したのだと、結論づけようとした。しかし、男は譲らない。「それは単なる言葉遊びではない。現実の出来事を記したものだ」。
佐伯は、連絡帳の記述が、ミカの編集者としての仕事、特に「魔剣」と題された連載小説の編集作業と深く関連していることに気づいた。連載が進むにつれて、作者からの原稿に不可解な遅延や、内容の急激な変化が生じ始めたのだ。ミカはその「遅延」を連絡帳に「儀式」、原稿の「急変」を「深淵からの囁き」と暗号めかして記していた。男は、その「作者」が、連絡帳の記述を現実の呪文と誤解し、実際に「魔剣」を生み出そうとしていた、と主張する。佐伯は、ミカがその異常な状況を察知し、男に連絡帳の記述を「暗号」だと信じ込ませることで、事態の沈静化を図ろうとしたのではないかと推測した。
「君は何も分かっていない」。男は、佐伯の解釈を鼻で笑った。そして、ミカが遺した雑誌の最後のページを指差した。そこには、修正液で書かれた小さな文字があった。「連絡帳は、未来の私への警告。魔剣は、この雑誌そのもの。深淵は、情報過多による思考停止」。佐伯は愕然とした。男は、ミカの「連絡帳」の真意を、自分だけが「読めていない」と確信していた。しかし、佐伯が連絡帳の最初のページに目をやると、そこにはミカの筆跡でこう書かれていた。「もし、あなたがこの連絡帳を読んでいるなら、それは私が、この雑誌に仕掛けた『情報爆弾』が、あなたに届いた証拠です。魔剣は、まだ研がれていない。深淵は、あなたの思考の中に。さあ、新しい『物語』を始めて。」男は、ミカが仕掛けた「情報爆弾」――つまり、この雑誌と連絡帳のセット――を、現実の「魔剣」と誤解し、その「力」を求めて現れた、情報過多の時代に取り残された迷子だったのだ。佐伯は、静かに微笑んだ。ミカは、死してもなお、最高の「ドンデン返し」を仕掛けてきたのだと。