アリアドネの香階

長雨が都市の輪郭を溶かし、アスファルトの裂け目にクロノスの涙のように染み込んでいた。時間は粘性を帯び、緩慢な腐敗の匂いを放ちながら、俺の部屋を侵食している。その中心に、香炉は鎮座していた。燻されることのない伽羅、熱を与えられぬ白檀。それはもはや香を焚くための器ではなく、存在の空虚そのものを祀るための祭壇だった。かつて調香師であった俺にとって、香りは世界との交信を司るエーテルであり、記憶を紡ぐアリアドネの糸であった。しかし、あの事故は俺から嗅覚という名の宇宙を奪い去った。俺は今、断線した神経系の末端で、かつて受信した星々の光の残滓を辿ろうとする天文学者のように、沈黙した香りの記憶を探る。だが、そこにあるのは冷え切った恒星間空間の静寂、そして神に見捨てられたかのような絶対的な無だ。

その静寂を破ったのは、かつて俺の宇宙に別の銀河系を形成していた男、水無月律だった。彼は湿ったコートから、オブジェのような純白のデバイスを取り出した。「アリアドネの香階。君のための、迷宮からの脱出口だ」その声は、かつてピアノの鍵盤を叩いた指先のように、正確無比なロジックで響いた。「響、誰もが不完全な現実から逃れたがっている。病、老い、そして君のような喪失。これはそれら全てからの解放だ。技術は、神が与えそこなった完璧な救済を人類にもたらす」俺は首を振った。そのデバイスは、魂という名の野鳥を飼いならすための、甘美な毒を盛られた餌にしか見えなかった。「それは冒涜だ、律。記憶とは聖域だ。不完全で、移ろい、やがては風化するからこそ、俺たちの生そのものなんだ。お前のそれは、記憶の剥製を作る行為に等しい」

「冒涜だと? ラザロを蘇らせた奇跡を、冒涜と呼ぶのか」律の言葉は、啓蒙の光を装った傲慢の刃だった。彼の執拗な説得に、俺は抗う術を失っていく。まるでオルペウスの竪琴に引かれるエウリュディケのように、俺はデバイスをこめかみに装着した。律がプログラムを起動すると、彼が作曲したというミニマルな旋律が鼓膜を震わせた。その瞬間、時空が歪んだ。失われたはずの感覚野に、雷光のように奔ったのだ――雨の日の沈香。湿った土と、冷たい空気の中で、わずかな熱によって揮発する、あの深淵なる樹脂の香り。それは俺がかつて恋人と過ごした雨の日の記憶と、寸分の狂いもなく同期していた。歓喜が全身を駆け巡る。だが、その直後、俺は神の奇跡を模倣するプロメテウス的な禁忌を犯した恐怖に全身を震わせた。これは、俺の記憶か? それとも、記憶の形をした、より高次の存在からの神託なのか?

俺は律が用意した香階の迷宮に、溺れるように没入した。過ぎ去った日々の、あらゆる香りが蘇る。母の焼いたパンの香り、初恋の相手の髪の匂い、旅先の朝霧の気配。しかし、体験を重ねるうち、ある根源的な違和感が俺の精神を蝕み始めた。これらの香りは、完璧すぎるのだ。本来、自然界の香りが内包しているはずの、予測不可能な分子の揺らぎ、俺が「魂の呼吸」と呼んでいた微細な不確定性、そして時間の経過と共に変質していくエントロピーの刻印が、そこには一切存在しなかった。プラトンのイデア界から直接引き出されたかのような、時間が凍結された絶対的な完全性。それは記憶を豊かに上書きするのではなく、神聖なホルマリンに漬けて化石化させる行為だった。「律、これは救済じゃない! 魂を永遠に閉じ込める、聖別された牢獄だ!」俺はデバイスを引き剥がし、叫んだ。

律は静かに、しかし確信に満ちた声で反論した。「それが偽りの神殿だとしても、君がそこで祈りを捧げ、救われるというのなら、そこに意味が生まれる。不完全な現実で朽ち果てることと、完璧な虚構の中で永遠を生きること。どちらがより人間的な尊厳を守れると思う?」俺は彼の言葉を振り払うように、軋む窓を力任せに開け放った。ざあ、という音と共に、本物の雨が孕んだ空気が流れ込む。そこには、何の香りもなかった。ただ、無味無臭の、不完全な現実があるだけだ。しかし、その虚無の空気が肌を打ち、冷たい雨粒が腕に触れ、遠くで鳴り響くサイレンの音が鼓膜を揺さぶった時、俺は確かに感じたのだ。嗅覚の沈黙と引き換えに研ぎ澄まされた他の感覚が、ざらついた実存のテクスチャとして、俺という存在の輪郭を激しくなぞるのを。喪失という名の、残酷な自由を。神聖なる化石の牢獄か、それとも虚無を抱きしめる荒野か。俺の手は、まだ、そのどちらにも伸ばせずにいた。

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