偽りの宝箱と、本当の地図
いつものように、高橋陽子は商店街の片隅にある「喫茶 どんぐり」の窓際席に座っていた。埃をかぶった冒険小説のページをめくるような、単調な日々。パートの仕事で指先が荒れ、疲れた顔を鏡に映すたび、子供の頃、血湧き肉躍る冒険物語に夢中になった自分が遠い昔のようだ。小気味よく鳴るドアベルに顔を上げると、友人の佐々木恵が、いつものようにキリリとした表情で入ってきた。
「陽子さん、またここでぼんやり?」
恵の声に、陽子は苦笑いを浮かべる。
「だって、他にすることがないんだもの」
「新しい趣味でも探したら? 手芸とか、習い事とか。もう、いつまでも夢みたいなことばかり追いかけてちゃダメよ」
恵の言葉は、いつだって現実的で、そして少しだけ意地悪だ。陽子は曖昧に頷き、窓の外に目をやった。商店街を歩く人々の顔に、特別な輝きはない。まるで、自分と同じように、ただ時間だけが過ぎるのを待っているかのようだ。
その日の午後、陽子がいつものようにコーヒーを啜っていると、隣のテーブルから穏やかな声がかけられた。
「失礼ですが、その本、とても面白そうですね」
顔を上げると、柔和な笑顔の男がいた。佐々木健一と名乗った。人当たりは良いが、その瞳の奥に、どこか底知れないものを感じた。
「ああ、これは子供の頃からずっと、私の宝物なんです」
陽子は思わず、普段はあまり話さない自分の子供の頃の夢を口にした。佐々木は、耳を傾けるように頷き、やがて、こんな話をし始めた。
「実は、私、古い地図を扱っているんです。珍しいものですよ。子供の頃に読まれたという、あの冒険小説の挿絵に描かれているような、不思議な模様の地図なんです」
陽子の心臓が、どくん、と音を立てた。佐々木は、陽子の反応を見逃すまいと、さらに続けた。
「その地図には、伝説の秘宝の在り処が記されているんですよ。それを手に入れるための、まさに『冒険』が、陽子さんのような、夢を忘れていない方にきっと見つけてほしいと願っているんです」
佐々木の言葉は、陽子の心の奥底に眠っていた、あの冒険への憧れを、熱い炎のように燃え上がらせた。退屈な日常から抜け出せるかもしれない。あの小説の世界が、現実になるかもしれない。
数日後、陽子は佐々木と会っていた。佐々木は、陽子が子供の頃に憧れていた、あの冒険小説の地図そっくりの、古びた羊皮紙の地図を広げて見せた。そして、宝を手に入れるためには、まず「準備金」が必要だと説明した。
「君なら、きっとできる。君のその、キラキラした瞳は、昔から変わらない。あの頃の夢を、もう一度掴むチャンスなんだ」
佐々木の甘い言葉は、陽子の心の壁を溶かしていった。恵に相談すべきか、一瞬迷ったが、このチャンスを逃したくないという気持ちが勝った。陽子は、長年、パート代をコツコツ貯めてきたへそくりを、佐々木に手渡した。
「秘宝を見つけたら、すぐに連絡しますよ。楽しみに待っていてください」
佐々木はそう言って、陽子の前から姿を消した。数日経っても、連絡は来ない。陽子は、毎日のように携帯電話を握りしめ、佐々木の言葉の矛盾に気づき始めた。あの地図は、本当に本物だったのだろうか。子供の頃、似たような話を聞いたような気がする。不安になり、恵に相談した。
「陽子! それ、詐欺よ! すぐに警察に…」
恵の言葉に、陽子の頭の中は真っ白になった。宝箱は、幻だったのだ。あの高揚感、冒険への期待。すべては、巧妙に仕組まれた嘘だった。失望と、自分の愚かさへの怒りで、陽子の目から涙が溢れた。
宝箱は、手に入らなかった。しかし、佐々木と話していた数日間、陽子は確かに、あの頃の冒険心を取り戻していた。胸が高鳴り、日常に彩りが生まれていた。喫茶店の窓から見える、いつもと変わらない商店街。その風景が、昨日までとは少し違って見えた。子供たちが、紙で作った色とりどりの折り鶴を、商店街の入り口に飾っている。一つ一つが、一生懸命に折られた、ささやかな「宝」だ。
「恵、私、大丈夫よ。また、一から始めればいいんだから」
陽子は、恵に微笑みかけた。詐欺というほろ苦い現実。しかし、幻を追うことで、かえって自分の内側にあるもの、そして、このありふれた日常に潜む温かさや、ささやかな希望に気づくことができた。彼女の冒険は終わった。だが、人生という名の、もっと地道で、しかし確かな「現実」という名の地図を、陽子は再び歩き始める。子供たちの折り鶴のように、日常の中に確かに存在する、温かい光を頼りに。