静寂の代議士
夜空は、遮るもののない黒いベルベットのように広がっていた。エリオットは、居住区画7Bの自室の窓から、それを静かに見上げていた。規則正しく配置された箱型の住居が、地平線まで延々と続いている。その均質性は、彼の神経を微かに苛んだ。代議士。それは、この街の住民たちの要望を、遥か彼方の議会へと届ける役割を意味した。しかし、彼は常に、自分がこの街に、そしてこの役割に相応しくないという、漠然とした劣等感に囚われていた。住民たちは、彼の提案を「無難すぎる」「当たり障りがない」と評した。彼自身、それを否定できなかった。
ある日、住民代表がエリオットの執務室を訪れた。彼らの顔には、不満の色が濃く浮かんでいた。 「エリオット代議士。今回の景観維持に関する議会への提案について、我々住民は、あなたの『無関心』を非難せざるを得ません」 住民代表は、早口でまくし立てた。その声には、抑えきれない感情が滲んでいた。 「あなたの提案は、個性を無視した、無味乾燥なものです。この街が、ただの箱の集合体になってしまって良いと、本気で思っていらっしゃるのですか?」 エリオットは、彼らの感情的な訴えを、冷静に分析していた。内なる劣等感。それを隠すための、徹底した冷静さ。住民たちの「普通」という基準に、自分は適合できない。その事実を、彼は静かに観察した。 「提案につきましては、規定のフォーマットに基づき、効率性と維持管理の容易さを最優先いたしました。個別のご要望は、別途、担当部署にご提出いただけますでしょうか」 彼の応答は、論理的かつ事務的だった。住民たちの感情的な要求に対し、彼は、感情を排した、事務的な返答を繰り返す。そのズレが、住民たちの苛立ちを増幅させているように見えた。
エリオットは、議会での自身の発言を記録し、分析することを日課としていた。彼の言葉は、住民たちの感情に触れることなく、ただ情報として処理されている。その事実に、彼は何の感慨も抱かなかった。妻のアリアは、そんなエリオットの様子を、静かに見守っていた。彼女は、エリオットが抱える劣等感の根源を理解しようと試みていたが、その表面的な振る舞いの奥にあるものを、明確に捉えることはできなかった。
議会で、エリオットは新たな提案を行った。「住居区画の更なる均質化推進」と題されたそれは、住民たちの「普通」への渇望と、自身の「特別」への密かな願望が、歪んだ形で反映されたものだった。個性を排除し、効率性を最大化することで、彼は自身の「無能さ」を隠蔽し、同時に「卓越性」を演じようとしていた。その矛盾した行動原理は、彼自身の、冷徹な分析対象となった。
議会で、エリオットの提案が議論された。住民代表は、彼の提案が「個性を抑圧するものだ」と激しく反対した。 「これは、我々の生活を画一化するだけだ!もっと、多様性を認めるべきだ!」 しかし、議会の他の代議士たちは、エリオットの提案を評価した。 「効率的で、無駄がない。維持管理のコストも削減できるだろう」 エリオットは、この反応を淡々と観察していた。住民たちが彼に期待していた「感情」や「共感」ではなく、議会が求めていたのは「合理性」と「効率性」であった。彼の劣等感は、彼が「普通」ではないことへの恐怖から、彼が「普通」に属せないことへの、静かな受容へと、微かに変容していくのを感じた。
エリオットは、議会での自身の役割を続行した。彼の発言は、以前にも増して論理的で、感情の起伏がないものとなった。住民たちは、彼の提案に不満を漏らし続けたが、もはや彼に直接的な感情をぶつけることはなくなった。アリアは、窓の外の均質な住宅街を眺め、エリオットが静かに、しかし確実に、その均質化された風景の一部へと溶け込んでいくのを認識した。エリオットは、夜空を見上げた。その冷たい光の中に、自身の存在の断片を見た。そこに、希望も絶望もない。ただ、静かな観測が続く。ただ、一つのケースから、サンプルが取り除かれただけだった。