平原の日報

平原の風は、どこまでも乾いていた。佐伯剛は、その風が唯一の友であるかのような、広大な観測所に一人、身を置いていた。遮るもののない地平線は、夜になると漆黒のvelvetとなり、星々だけが冷たく瞬く。佐伯の生活は、この観測所と同じように、極めて規則的だった。毎朝、定刻に起床し、観測機器のチェックを行い、そして夜には、その日の観測結果を「日報」と記された分厚い帳面に書き込む。それが、佐伯の精神を支える唯一の柱だった。静寂と、正確な時間だけが、この隔絶された世界で彼を人間たらしめていた。

ある夜のことだった。いつものように日報にペンを走らせていた佐伯の耳に、微かな音が届いた。それは、遠く、地平線の向こうから響いてくるようだった。人の声のようでもあり、獣の鳴き声のようでもあり、かといって、どちらとも断定できない、奇妙な「合唱」のような響き。佐伯は耳を澄ませた。風の音だろうか。あるいは、遠くの牧場の羊たちの鳴き声か。この平原では、音は驚くほど遠くまで届く。彼はそう自分に言い聞かせ、再びペンを動かした。しかし、その音は、まるで水滴のように、佐伯の意識の片隅に染み込み始めた。翌日も、そしてその翌日も、夜になるとあの音が聞こえてくる。そして、その音は、徐々に、しかし確実に、その音量を増していくように思われた。佐伯は、日報の余白に、その異音について書き留め始めた。「2月17日、23時頃より、原因不明の、複数の声による合唱のような音を聴取。風の音か、あるいは聴覚の錯覚か。継続して観測する。」

音は、特定の方向から来るわけではなかった。それは、まるで平原そのものが、その声を発しているかのようだった。ある満月の夜、佐伯はいてもたってもいられず、観測所の扉を開け、漆黒の闇へと踏み出した。空には月が浮かび、足元には草が風に揺れている。どこからともなく聞こえてくる「合唱」に耳を澄ませながら、彼は歩き続けた。だが、何も見えない。風が草を撫でる音だけが、慰めとも、嘲りともつかない音を立てていた。観測所に戻ると、今度は機械の不調が彼を悩ませ始めた。記録計の針が微かに震え、データには説明のつかない異常値が時折現れる。佐伯は、日報に、これらの機械的な異常と、あの「合唱」とを結びつけて書き始めた。論理的な説明はできない。だが、彼の感覚は、それらが繋がっていると訴えていた。そして、それだけではなかった。部屋の隅に、人の形に似た、しかし実体のない、揺らめく影が視界の端をよぎるようになった。ふと、鼻腔をくすぐる匂い。それは、枯れかけた花のような甘ったるい腐敗臭と、鉄錆のような渋さと、そして蜜のような粘り気のある、形容しがたい異臭が混じり合ったものだった。

「合唱」は、もはや夜だけのものになってはいなかった。昼間でも、唐突に、佐伯の意識を断ち切るように響いてくる。集中しようとすればするほど、その音は強まり、佐伯の思考を掻き乱した。日報の記述は、次第に支離滅裂になっていった。規則正しい記録は影を潜め、音や匂い、そしてあの揺らめく影についての、妄想めいた記述がその場所を占めるようになった。「影が、こちらを見ている」「匂いが、喉に絡みつく」。彼は眠ることもできなくなった。夜になると、観測所の窓に顔を押し付け、どこまでも続く平原をただ見つめる。窓ガラスに映る自分の顔が、まるで水面に映ったかのように、歪んでいくように感じられた。それは、佐伯自身の顔ではないような、そんな気がした。

ある日、佐伯は日報の最後に、奇妙な一文を書き記した。「彼らが、歌っている。」それは、まるで、あの「合唱」が、佐伯自身の喉から漏れ出ているような、そんな感覚に襲われたからだった。日報の文字は、もはや佐伯自身の筆跡とは思えなかった。まるで、誰かに操られているかのように、乱れ、震えている。そして、日報の最後のページ。そこには、意味不明な単語の羅列が、びっしりと書き殴られていた。「合唱」の歌詞らしきものだった。それは、言葉として意味をなさなかったが、その響きは、佐伯の耳にこびりついたあの「合唱」と、不思議なほど似通っていた。

翌日、観測所には、いつものように静寂が戻っていた。佐伯剛の姿は、どこにもなかった。ただ、机の上に、日報だけが、無造作に開かれたまま残されていた。最後のページには、あの意味不明な歌の歌詞が、まるで祈りのように、びっしりと書き込まれている。窓の外には、相変わらず、広大な平原が、静かに広がっている。遠く、風に乗って、微かに、あの「合唱」のような音が聞こえてくるような気がした。それは、佐伯が書き残した歌詞の断片に、似ているようでもあった。観測所は、まるで、次の「日報」を、静かに待っているかのようだった。

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