港の書類と最後のスムージー

目覚めると、いつものように、見慣れない天井があった。名前は海斗。それだけは、かすかに覚えている。しかし、それ以外は、砂漠に消えた轍のように、何も思い出せない。古びたアパートの窓からは、灰色の海と、錆びたクレーンが並ぶ港が見えた。

毎朝、決まった時間に、郵便受けに書類が届く。日付と、意味不明な言葉。その日の「指示」だ。「波は青く、砂は熱い。空を見上げよ。」そんな抽象的な言葉と、スムージーの材料。バナナ、ベリー、そして謎の粉末。それを混ぜて飲むと、一日が始まる。まるで、誰かが用意したプログラムをなぞるように。

違和感は、じわじわと染み込んできた。書類の言葉は、まるで子供だましだ。しかし、他にやることがない。この町で、俺はただ、消費するだけの存在だった。過去の断片が、夢のように現れては消える。青い海、熱い砂、そして、見上げる空。

その日、書類は違っていた。「港の倉庫で待て。」いつもと違う指示に、胸が微かに高鳴った。スムージーを飲み干し、アパートを出る。潮の匂いが鼻をついた。港の倉庫は、ひっそりと佇んでいた。軋む音を立てて扉を開けると、奥に人影があった。

「待っていたよ」

声の主は、胡散臭い笑顔の男だった。皺の寄った顔に、値踏みするような目が光る。

「その港の風景、本当に初めて見たのか?」

男の言葉は、冷たい水のように俺の意識に染み込んだ。初めて? いや、そうではないような気もする。だが、確信はない。

「お前は、自己再創造実験の被験者だ」

男は続けた。「記憶を失った。いや、失ったのではなく、自ら書き換えたのだ。あの書類は、その記録であり、お前の日々の行動指示書だ」

実験? 書き換えた? 俺が? 混乱で頭がぐらぐらした。男は、俺の過去の断片を、まるで自分のことのように語った。俺は、何か大きな過ちを犯したのだろうか。それとも、何かから逃げていたのか。

「選択肢はある」男は言った。「このまま、偽りの記憶の中で生き続けるか。それとも、本当の自分と向き合うか」

俺は、手元の書類に目をやった。そこには、いつもの指示とは違う、短い言葉が記されていた。「これで全ては終わりです」。そして、いつものように、スムージーの材料が置かれている。男の言葉を、信じればいいのか。信じなければいいのか。

俺は、ブレンダーに手を伸ばした。材料を投入し、スイッチを入れる。機械が唸りを上げた。その時、書類の裏に、震えるような筆跡で書かれたメモが目に入った。

「これは、僕が僕自身を騙すための、最後の実験だ。記憶を消し、新しい人生を始める。この港で、この書類とスムージーだけを頼りに、本当の僕に辿り着くまで。」

俺が、書いたのか。

ブレンダーを止めた。メモを握りしめる。毎日飲んでいたスムージーは、記憶を消去するための薬だったのだ。そして、書類は、失った記憶を再構築するための、あるいは、新しい自分を創造するための、設計図。港の倉庫で出会った男は、俺自身が仕掛けたプログラムが生み出した、案内人だったのだ。

俺は、記憶を失った被害者ではなかった。自らの意思で、過去を葬り去り、新しい自分になろうとしていたのだ。港の霧が、ゆっくりと晴れていく。青い空が、どこまでも広がっていた。俺は、これから、本当の自分を、創造していく。

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