静寂の論理
自宅の庭の片隅、正確には、あの古びた石灯籠のすぐ北側。そこには、奇妙な現象が観測される。微かな振動と共に、まるで透明な巨人が通り過ぎたかのような、空間の歪みが一瞬だけ現れるのだ。著名な物理学者である古森譲二は、この不可解な現象に、未踏の物理法則の存在を予感していた。助手である佐々木聡には、この件を極秘にするよう厳命し、自らは寝食を忘れ、庭に設置した高感度センサーのデータとにらめっこを続けていた。彼にとって、これは単なる好奇心ではなかった。それは、論理の極限に挑む、至高のパズルだったのだ。
しかし、古森の静かな探求は、予想外の波紋を広げつつあった。近隣住民の間で、「古森邸から、夜な夜な不審な振動や物音がする」という噂が囁かれ始めたのだ。ある晩、佐々木が古森邸の門前で立ち尽くしていると、隣家の女性、近隣住民Aが血相を変えて飛び出してきた。 「佐々木さん!先生、最近、何か隠れて実験でもなさっているんですか?昨晩も、庭の方から、まるで重いものが引きずられるような音がして…。危ないものじゃないかと、心配で…」 佐々木は、古森から言われた通り、動揺を隠し「気のせいです。先生は、ご自宅では静かに過ごしておられます」と答えるしかなかった。だが、その言葉に、女性の不安を打ち消す力はなかった。世論は、不確かな憶測と、過去の経験に裏打ちされた不安と結びつき、次第に歪んだ形を帯びていく。
古森は、センサーのデータに混入する微細な「ノイズ」と「パターン」に、ある種の意図的な操作の痕跡を見出した。物理学的な法則だけでは説明がつかない、しかし、聞く者に「異常」と認識させるに十分な、巧妙な細工。それは、まるで、誰かが古森の注意を引き、彼を混乱させるために仕掛けたかのようだった。誰が、何のために?
古森は、現象の発生時刻と、近隣住民Aが語った「重いものが引きずられるような音」がしたという時間帯を照合した。そして、ある驚くべき相関関係を発見する。現象が観測されるたび、隣家の窓が、ごくわずかに、しかし確実に開閉されていたのだ。さらに、その窓の開閉と、庭の特定の場所で発生する微弱な振動・音波の周波数が、ある角度で共鳴し、あたかも「何かが通った」かのような錯覚を引き起こしていることを突き止めた。それは、物理学的な謎ではなかった。人間の心理と、音響効果を利用した、巧妙な「仕掛け」だったのだ。
「佐々木君」 古森は、助手である佐々木を研究室に呼び出した。目の前には、複雑に絡み合っていたデータが、一本の線で結ばれたグラフが広げられている。 「犯人は、君が昨日話を聞いた、隣家の女性だ」 佐々木は目を見開いた。古森は淡々と続けた。 「彼女は、君が言ったように、僕が庭で何か危険な実験をしているのではないかと疑い、僕を『動揺』させようとした。彼女自身、過去に世論によって不当な扱いを受け、傷ついた経験がある。おそらく、僕が『世論』に翻弄される姿を、無意識に重ねていたのだろう。彼女は、自らの家の窓の開閉と、庭に置いた単純な共鳴装置――空き缶に穴を開けたものだろう――を使って、僕に『奇妙な現象』を観測させていたのだ。物理学の法則ではなく、人間の心理と、それを巧みに利用した音響効果こそが、この『現象』の鍵だった」
古森は、彼女に直接対峙することなく、この「謎」を解き明かした。彼は、この一件を公表せず、静かに見守ることを選んだ。やがて、住民たちの不安は「気のせいだった」という世論へと変わり、日常は静寂を取り戻していくだろう。古森は、佐々木に静かに語りかけた。 「学問とは、真実を探求する営みだが、時には、真実よりも、人々が信じたいと思う『物語』の方が、強く人を動かすこともある。今回の件は、その良い例だ」 読者は、物理学的な謎解きを期待していた。だが、その実、人間の心理と過去の経験が引き起こした巧妙な「仕掛け」であったという、予想外の結末に、驚きと納得を同時に感じるだろう。常識や世論がいかに個人の真実を歪め、あるいは操作されうるかという問いが、静かに心に残る。