真夜中の懸念飼育法
午前二時の寝室というのは、世界で最も物理法則が綻びやすい場所だということを、あなたはご存知でしょうか。重力定数が数字の端からポロポロと剥がれ落ちて、天井と床の定義が曖昧になる刻限。私が目を覚ますと、天井の木目がぐにゃりと渦を巻いていました。
それは「懸念」でした。
比喩ではありません。明日のプレゼンテーションの失敗だとか、冷蔵庫の牛乳の賞味期限だとか、そういった脳内の電気信号としての不安ではなく、確かな質量と輪郭を持った物質としての「懸念」が、私の頭上に鎮座していたのです。直径五十センチほどの、光を吸い込む漆黒の球体。それはまるで、宇宙の果てから切り取ってきた夜の欠片のように、静かに、しかし圧倒的な存在感でそこにありました。
私は枕元の辞書を引き寄せました。私の人生において、ニュートン力学よりも信頼に足る唯一の経典です。「懸念:気にかかって不安に思うこと」。辞書はそうそっけなく定義していますが、目の前のこれは明らかに定義からはみ出しています。私の寝室の空気を歪ませ、微かな引力を発して、餌を求めてこちらを窺っているのですから。
不眠症の夢想家である私にとって、未知の怪異は恐怖の対象ではなく、解き明かすべきパズルであり、愛でるべき対象です。私は布団を跳ね除け、この「自然発生したペット」の観察を始めました。
違和感は急速に拡大していきました。サイドテーブルに置いてあった読みかけの文庫本が、ふわりと浮き上がり、黒い球体へと吸い込まれていきます。物質だけではありません。部屋の隅に漂っていた「昨日言い淀んだ台詞の余白」や、時計の秒針がチクタクと刻む「焦燥」といった抽象的な概念までもが、物理的な重さを持って、ずるりとその口へ滑り落ちていくのです。どうやらこのペットは、形あるものよりも、形なき重みを好む偏食家のようでした。
「お腹が空いているのかい?」
私は独りごちて、飼育員としての義務感に燃えました。さて、この黒い球体には何を与えるべきか。私はメモ帳を破り、そこに大きく「楽観」と書いて紙飛行機を折りました。希望的観測というやつです。それをふわりと放つと、紙飛行機は球体の重力圏に捕まり、吸い込まれました。
バチッ!
激しいスパーク音と共に、球体が明滅しました。まるで悪いものを食べた子供のように、不快そうに震えています。「楽観」は消化に悪かったようです。私は急いで戦略を修正しました。この子が求めているのは、もっと重たく、粘度のある概念なのだと。
次は「徒労」と書いた紙を丸めて投げました。続いて「杞憂」。さらには「不可抗力」。
効果は覿面でした。ネガティブで救いようのない言葉を飲み込むたびに、その漆黒は艶やかに輝き、満足げに膨張していきます。部屋の奥底から、古い冷蔵庫のコンプレッサーのような、あるいは遠くの海鳴りのような、低く重い音が響き始めました。それは恐らく、彼なりの喉の鳴らし方なのでしょう。
私は夢中になって言葉を与え続けました。辞書を片手に、この世のあらゆる不安と懸念を彼に捧げました。私の心の中に巣食っていた漠然とした恐怖も、将来への不透明な展望も、すべて彼が美味しそうに平らげてくれました。私の心は軽くなり、反比例するように、頭上の「懸念」は肥大化していきました。
気づけば、「懸念」は天井を覆い尽くすほどに巨大化していました。部屋の壁紙がメリメリと剥がれ、空間そのものが飴細工のように歪み始めています。しかし、それは破壊の光景ではありませんでした。部屋全体が、この巨大な「懸念」の一部になりたがっているのです。それは一種の「巣作り」でした。
重力はもはや狂乱の域に達していました。家具も、窓の外の月明かりも、すべてが黒い球体を中心にして回っています。私はベッドの縁にしがみつきながら、奇妙な安らぎを感じていました。台風の目が無風であるように、巨大すぎる懸念の中心こそが、この不安定な世界で最も安全な揺り籠なのではないか、という結論に至ったのです。
「いいよ、もう十分だ」
私はパジャマのポケットに辞書をねじ込みました。これ以上、外から与える餌はありません。残された最後の、そして極上の餌は、この現象を観測し、定義しようとし続けた「私」自身です。
私は飼育員としての最後の務めを果たすべく、床を蹴りました。重力に逆らう必要はありません。部屋中の引力が、私を祝福するように背中を押してくれました。
身体が引き伸ばされる感覚。上下左右が融解し、意識が裏返るような眩暈。私は自ら「懸念」の口へと飛び込み、その一部となりました。
吸い込まれた先は、暗闇ではありませんでした。そこは、あらゆる言葉が溶け合い、極彩色のスープとなって渦巻く場所でした。
鼻をつく甘ったるい腐臭、それは「愛」の成れの果てでした。舌の上に広がる冷たく硬質な幾何学模様の味、それは純粋な「論理」でした。「悲しみ」は青いビロードのような手触りで肌を撫で、「喜び」は炭酸水のように弾けて視界を白く染め上げました。
概念が実体を持ち、実体が概念へと還元される混沌の海。私はそのスープを羊水のように感じながら、ポケットの辞書を抱きしめました。ここにはもう、定義すべき境界線は何一つありません。
私は生まれて初めて、不眠症の長い夜を抜け出し、泥のような、けれどこの上なく幸福な深い眠りへと落ちていきました。