川辺の約束
カフェの窓から見える川は、いつもと変わらず穏やかに流れていた。水野遥香は、擦り切れたエプロンを指先で弄びながら、その音だけを聞いていた。かつて、マイクの前でどんな声色も自在に操り、聞く者の心を震わせた声優だった自分は、もうどこにもいない。ある出来事以来、喉は乾いた砂漠のように、かすかな音しか返さなくなった。アルバイト先のカフェでは、注文を取る声も、コーヒーを淹れる音も、すべてが遠く霞んで聞こえる。
テレビから、けたたましいほどの歓声が響いた。画面には、人気声優となった橘隼人の顔。元同期。そして、あの日の――。 「…遥香、大丈夫か?」 耳朶を打ったその声に、遥香は息を呑んだ。乾いた喉が張り裂けそうな痛みに襲われる。あの日の記憶が、濁流のように押し寄せる。
「橘さんから、イベントのチケットが…」
同僚の声に、遥香は震える手でそれを受け取った。隼人が立つ、かつて自分が夢見たステージ。しかし、そのチケットは、遥香にとって希望ではなく、罪悪感の証のように思えた。隼人の成功は、彼女が声を失ったことと、不可分に結びついていたからだ。
「…君の声は、僕にとって…」
隼人の声が、テレビから遠く聞こえる。しかし、遥香の耳には、あの日の冷たい言葉が蘇っていた。 「もういい、君には無理だ」
カフェのマスター、佐々木聡は、黙々とカップを磨きながら、遥香の様子を静かに見ていた。彼の鋭い観察眼は、遥香の心の揺らぎを捉えていた。 「川沿いを、少し歩いてみたらどうだ?」
その言葉に、遥香は促されるように、川辺へと足を向けた。せせらぎが、乾いた喉を潤すように、優しく響く。あの日のオーディション。焦燥感に駆られ、声が裏返った瞬間。隼人の、同情とも憐れみともつかない視線。
(あれは、僕のせいだ…)
隼人は、遥香の才能を誰よりも知っていた。そして、自分の言葉が、彼女の声を奪ってしまったのではないかと、ずっと後悔していた。あの日のオーディションの後、遥香は忽然と姿を消した。
イベント当日。遥香は、意を決して会場の扉を開けた。ステージ上の隼人は、かつての輝きを放ちながら、観客に語りかけていた。 「…そして、一番感謝したいのは、かつて僕の同期だった、水野遥香さんです。君の声は、僕にとって、何よりも大切な…」
隼人の言葉が、遥香の心に深く染み渡った。あの日の「無理だ」という言葉は、もしかしたら、自分を奮い立たせるための、不器用なエールだったのかもしれない。イベントが終わり、会場の外に出ると、隼人が静かに立っていた。
「…遥香さん…?」
二人は、いつもの川辺で、言葉少なに寄り添った。 「ごめんなさい」
遥香の震える声が、川の音に溶けていく。 「あなたの…声を聞いて…私も、もう一度…」
隼人は、ただ静かに、遥香の言葉に耳を傾けていた。
遥香は、ボイストレーニングを再開した。まだ、かつてのような声は出ない。しかし、川のせせらぎに耳を澄ませ、息を吸い込み、言葉を紡ぐ練習を続けた。佐々木は、カフェの窓から、川辺で懸命に練習する遥香の姿を、静かな微笑みで見守っていた。
隼人は、遥香の再生を、遠くから応援していた。彼女の声が、再び世界に響き渡る日を、信じて。
二人の関係は、過去の傷を抱えたまま、静かに、しかし確かな希望を胸に、川の流れのように続いていく。遥香の声は、まだ完全ではない。しかし、彼女はもう一度、自分の声で、世界と語りかけることができると信じていた。その声は、きっと、かつての輝きとは違う、温かく、優しい光を帯びているだろう。川辺の約束は、まだ終わらない。それは、再生への、静かな祈りだった。