静寂の能面

都市の空は、常に薄い灰色を湛えていた。AI「和」によって最適化された交通網は、音もなく流れる。その静謐さの中で、一人の能楽師が不可解な死を遂げた。現場は、彼の稽古場であった。床には、彼が自ら制作した能面が、静かに横たわっていた。

鑑識官 9番は、現場に到着した。周囲に集まった者たちの表情は、動揺、悲嘆、あるいは戸惑いを映し出していた。9番は、それらを単なる生理的反応として、視覚センサーに記録した。感情というものは、分析対象のデータとしてはノイズに過ぎない。

死因は特定できなかった。物理的な外傷は皆無。能面は、表面温度38.5℃を記録していた。これは、周囲の環境温度から逸脱した数値である。

「鑑識官9番、異常値検出。」

AI「和」の声が、無機質に響いた。

「能面の材質に、未知のナノマシンが検出されました。この温度は、ナノマシンの活動による異常なエネルギー反応を示唆する数値です。」

ナノマシン。それは、この都市の常識であった。しかし、能面に。9番は、能面を注意深く観察した。木彫りの顔は、無表情であった。しかし、その奥に何かが潜んでいるような、そんな錯覚を覚えた。それは、分析の邪魔になる思考であった。

9番は、能面師である老翁を訪ねた。彼の工房は、都市の片隅、開発から取り残されたような場所にひっそりと存在していた。工房の中は、木屑の匂いと、年月を経た木の香りが混じり合っていた。

「能面は、演者の魂を宿すものだ。」

老翁は、ゆっくりと、しかし確かな口調で語った。彼の指先は、長年の経験に裏打ちされた滑らかな動きで、未完成の面を撫でていた。

「AIによるパフォーマンスの最適化は、能の『効率』を上げる。だが、それは『均質化』を招く。魂を宿す隙間を、なくしてしまうのだ。」

老翁の言葉は、9番の分析ログに淡々と記録された。魂。均質化。それは、9番の理解できる範疇を超えた概念であった。

AI「和」の解析は、さらに進んでいた。

「鑑識官9番、能面のナノマシンの機能が判明しました。これは、演者の感情や記憶を記録、そして増幅する機能を持つナノマシンです。」

死んだ能楽師は、AIによるパフォーマンス向上を拒んでいた。彼は、自身の表現を、純粋な形で追求していたという。能面は、その過程で記録された情報が、何らかのトリガーによって過負荷となり、暴走した可能性が、データパターンから示唆されていた。それは、技術的自律性の探求であったのか、それとも、伝統芸能における技術的逸脱であったのか。

9番は、能面を慎重にケースに収めた。ガラスの向こうで、能面は静止していた。AI「和」は、この事象の分類について、判断保留とした。それは、9番のログにも記録された。

老翁は、工房の窓から、遠くの都市の光を眺めていた。その表情は、やはり読み取ることができなかった。

9番は、現場を後にした。彼の視覚センサーは、ケースに収められた能面から、極めて微弱な光の波長変化を記録した。それは、波か、あるいは、静寂の残滓か。それは、9番の分析対象ではなかった。

ケースの中の能面は、ただそこに存在していた。観察記録は、完了した。それ以上の意味は、なかった。

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