雪解けの合図
年末年始、俺、佐藤健太は都会の喧騒から逃げるように、数年ぶりに故郷の山間の町に舞い戻った。
「いってらっしゃーい!」
駅のホームに降り立った途端、冷たい空気が肺に染み渡る。舞い散る雪は、都会のコンクリートジャングルとはまるで違う、静かで柔らかな肌触りだ。祖母、恵子に会うためだが、町は雪に覆われ、どこか寂しい雰囲気が漂っている。
「おや、健太かい?久しぶりだな!」
タクシー乗り場に向かう途中、顔見知りの運転手、山田さんに声をかけられた。
「山田さん!いやー、元気そうで何よりです。ていうか、この雪道、大丈夫ですか?四駆じゃないと、まるでペンギンが滑り台を滑るみたいに、ツルリンコってなっちゃいそうで。」
俺の軽口に、山田さんは「はっはっは!健太は相変わらずだな。まあ、この道なら俺の腕にかかれば、雪道だろうが氷道だろうが、お雛様のように優しく、しかし力強く、安全運転で家まで送り届けるさ!」と笑った。俺は思わず「お雛様?」と突っ込んだが、返ってきたのは「とにかく乗れ!」という力強い一言だった。
祖母の家は、相変わらず山の麓にあった。
「ただいまー。」
玄関を開けると、温かい匂いと、祖母の優しい声が俺を出迎えた。
「あら、ケンジ君。よく来たねぇ。」
「ケンジ?おばあちゃん、俺、健太だよ。」
祖母、恵子は、俺の顔をじっと見つめ、そして困ったように微笑んだ。認知症が進んでいることは知っていたが、こうして間違えられると、少し寂しい気持ちになる。
「そうかい、健太かい。でも、ケンジ君の顔は、昔と変わらないねぇ。あの時も、こうして雪の中、二人で迷子になったっけ。」
「え、迷子?俺、迷子になった記憶ないけど…。」
「そうかい?あの時、お父さんが買ってくれた赤い風船、覚えてるかい?」
祖母は、俺の記憶とは違う、しかし彼女にとっては鮮明な「あの日の出来事」を語り始めた。俺は、祖母の記憶の断片に、自分が忘れてしまった大切な何かがあるのではないかと、漠然と感じ、戸惑いと焦りを感じ始めていた。
町では、毎年恒例の冬の花火大会が開催されることになっていた。しかし、近年は予算も少なく、町外れの林の奥で、ひっそりと打ち上げられるだけだ。
「おばあちゃん、花火大会、一緒に行こうよ。」
俺の提案に、恵子は最初は戸惑っていたが、俺の熱意に押されて承諾した。
花火大会の準備を手伝う町の人々との交流の中で、昔ながらの花火師の老人から、こんな話を聞いた。
「この花火は、お前さんの祖父さんが、奥さんと毎年見ていた思い出の花火なんだよ。」
俺は、子供の頃に花火を見た友人との再会もあり、この花火大会が、かつて祖母が亡き祖父と毎年見ていた大切な思い出の場所であることを知った。故郷への愛着が、静かに蘇るのを感じた。
花火大会当日。俺は、恵子を連れて町外れの林へ向かった。寒空の下、夜空に花火が打ち上がり始める。
ドォォォォン!
その光景を見た恵子の様子が、突然変わった。それまで俺を別人だと思っていた恵子が、俺の目を見つめ、はっきりと「健太、あなたは私の大切な孫よ」と語りかけた。
そして、花火が夜空を彩る最も鮮やかな瞬間、恵子さんの口から、祖父からの言葉が詩的に紡がれた。
「健太、お父さんが言っていたでしょう。『この花火のように、どんな暗闇も照らせる人間になれ』って。」
恵子の記憶は、花火というトリガーによって、俺に関する最も大切な記憶を取り戻したのだ。
俺は、祖母が語る過去の記憶に、自分が忘れていた、あるいは無意識に封印していた、祖父との約束や、町で過ごした温かい日々を思い出した。花火の光が、恵子の皺の寄った顔を照らし、その瞳には涙が浮かんでいた。俺もまた、熱いものが込み上げてくる。祖母の記憶が戻ったことへの喜びと、失いかけていた故郷や家族との絆を再認識した感動。花火の音に混じって、恵子のすすり泣く声と、俺の嗚咽が響く。俺は、祖母の手を強く握りしめ、空に咲き誇る花火を見上げた。それは、失われた記憶の雪解けを告げる、静かで力強い、希望の光だった。俺は、都会で失いかけていた「自分自身」を取り戻したような感覚に包まれる。