丘を越えて、湯けむりの向こう側
降り積もる雪は、世界を静かに覆い隠していく。空は鈍く光る人工衛星の軌跡を薄く刻み、星影もまばらな大晦日の夜。アキラは、記憶の断片さえも掴めないまま、一台の自動運転車に身を委ねていた。車は意思を持つかのように、不気味な静寂の中、目的地の自動操縦を続ける。どこへ向かっているのか、誰に会う約束があるのか、全ては白紙。ただ、ここへ来なければならないという、漠然とした、しかし抗いがたい衝動だけが、彼の虚無の胸をかすかに震わせていた。冷たい雪の匂いが、鼻腔をくすぐる。遠く、山並みの向こうから、低く、しかし確かに響いてくる除夜の鐘の音。あたりは、呼吸すら許さないほどの静寂に包まれていた。車を降りると、錆びついた金属製の奇妙なオブジェが、雪に埋もれかけ、かつてここが賑わっていたであろう時代の、寂しい残骸のように佇んでいた。
湯治場は、ほとんど人の気配がなかった。古びた木造の浴場と、そこで静かに湯を沸かす、一人の老人がいるだけ。アキラは、促されるように熱い湯に身を沈めた。湯気は、白い帳のように視界を遮り、窓の外の雪化粧の丘をぼんやりと映し出す。その丘は、見覚えがあるような、ないような。湯気の中に、愛した人の面影が、懐かしい風景の残滓が、きらめく雪の結晶のように、しかし掴みどころなく、ゆらめきながら消えていく。それは、失われた記憶の断片を映し出す、儚い幻影のようだった。
老人は、ゆっくりと、しかし的確な言葉を選びながら、アキラに語りかけた。「記録者、ですか」アキラは、自分の過去が、そんな言葉に結びつくことを、ぼんやりと受け止める。記憶を失う技術が普及した時代。この寂れた湯治場は、過去の膨大な記録を保持する、一種のアーカイブ施設でもあるという。アキラの失われた記憶も、この場所のどこかに、静かに眠っているのかもしれない。彼は、夜明け前の暗い丘を眺めた。胸の奥底に、焦燥感が静かに、しかし確かに募っていく。特に、ある女性の笑顔が、雪の結晶のように儚く、しかし鮮烈に、脳裏をよぎった。
除夜の鐘が、厳かに響き渡る。アキラは、湯治場の裏手にある、小高い丘へと足を向けた。雪を踏みしめる音だけが、この静寂を破る。丘の頂上には、古い天文台の跡地があった。そこで彼は、かつて愛した女性と、この丘の上で星空を眺めた記憶の断片を垣間見た。彼女の温かい手の感触。耳元で囁かれた、甘く掠れた声。そして、夜空に無数に輝く、星々の光。しかし、それは鮮明な記憶ではなく、まるで遠い夢の残像のように、霞んでいた。記憶を取り戻したい。その強烈な欲求が、アキラの心を苛んだ。
空が白み始めた。雪は、いつの間にか止んでいた。丘の向こうから昇る初日の光が、立ち昇る湯気と、銀色に輝く雪景色を、淡く、しかし優しく照らし出す。アキラは、無理に失われた記憶を呼び覚まそうとすることを、静かにやめた。過去は、もう、この広大な風景の中に溶け込み、彼自身とは切り離された、遠いものになっていたのかもしれない。彼は、ただ目の前に広がる、静かで、どこまでも美しい世界を、静かに受け入れた。老管理人が、「また来なさい。この丘は、いつかまた、あなたを呼ぶでしょう」と呟く声が、遠く、風に乗って響いてくる。アキラは、何も持たずに、ただ丘を下り、雪の積もる道を歩き出した。背後には、静寂に包まれた湯治場と、彼が去った後の、がらんとした丘だけが、静かに佇んでいた。