定石破りの昼休み
昼休み。時刻は正午を指し、社内は社員たちの胃袋を満たすべく、炒飯やらカレーやら、なんとも香ばしい匂いで充満している。だが、わが古びた会社の、築年数だけは立派な社屋の土間だけは、相変わらず薄暗く、ひっそりとしていた。そこで、定時退社を信条とする生真面目な経理部員、田中一郎は、今日も今日とて囲碁の駒を並べている。ルールに忠実。一手一手、まるで経費精算のように丁寧に。隣では、一年後輩の営業部員、佐藤次郎が、窓の外をぼんやり眺め、指先で何かをなぞっている。田中は、佐藤が囲碁の『い』の字も理解しているのか、甚だ疑問だった。というか、そもそも、なんでこの薄暗い土間で囲碁なんだ、という根本的な疑問すら、田中の中には存在しない。それが定時退社後のルーティンだからだ。
「ふむ…」
田中が、いつものように、まるで請求書の捺印のように、カチリと黒石を置く。その瞬間、隣から珍しく声が掛かった。
「そこ、ダメっすよ」
「はあ?」
田中は、定時退社に向けて秒を数えるかのような速さで顔を上げた。誰だ、この素人は。囲碁のルールすら理解していないくせに、偉そうなことを言うのは。経理部員として、数字の整合性には異常にこだわる田中だが、囲碁に関しては、ただひたすらにルールブックの通りに打つことだけが正義だと思っている。素人が口を出すな、と苛立ちが募る。
「いや、そっから先を読むと、田中さんが全部取られちゃうんで」
佐藤は、いつもの飄々とした笑顔で、しかし真顔でそう言った。田中は、佐藤の言葉を鼻で笑った。取られる?この石が?そんなはずがあるまい。素人の戯言か。田中は、佐藤の言葉を完全に無視し、意気揚々と次の手を打った。ポチリ。
…ガサッ。
あっという間に、田中が丹精込めて並べた大石が、佐藤の黒石に包囲され、取られてしまった。まるで、決算書の裏で不正経理が発覚したかのように、田中は愕然とした。
「…なぜだ」
「まあ、ちょっとした読み筋っすけどね」
佐藤は、まるで「期末の売上目標達成しちゃいました」とでも言うかのように、あくまで飄々としている。その余裕っぷりに、田中はさらに腹を立てるべきなのか、それとも、この状況にただただ呆然とすべきなのか、判断がつかない。定時退社まであと30分。このままでは、家で待つ温かい夕食の時間が…!
その時、偶然通りかかった鈴木三郎課長が、土間の様子に興味を引かれたのか、立ち止まった。
「お、田中、佐藤。昼休みに囲碁か。真面目なのはいいが、昼休みくらい休め、と言いたいところだが…」
課長は、田中が取られた石を見て、眉をひそめた。
「田中、お前、そんなに打ち方が下手だったか?佐藤、お前、囲碁もやるのか?」
「あー、まあ、昔ちょっと…」
佐藤が、歯切れ悪く答える。課長は、昔気質の男で、囲碁のことなど全然わからない。しかし、田中と佐藤のやり取りを聞いているうちに、偶然にも、佐藤がかつてアマチュア囲碁界で、それはもう、それはもう、とんでもない腕前だったことを知るに至った。プロも顔負け、とまで言われた逸材だと。田中は、佐藤が昼休みにいつも窓の外を眺めて指先で何かをなぞっていた、あの「謎の行動」が、実は、プロ級の腕前を隠しての、囲碁の練習だったことに気づき、衝撃を受けた。経理部員として、数字の裏に隠された真実を暴くのが仕事だが、まさか、身近な同僚に、こんなにも意外な「定石」があったとは。いや、定石どころか、これはもう、禁断の「禁じ手」レベルの衝撃だ。
田中は、自分の凝り固まった「定石」と、佐藤の「自由な発想」、いや、もはや「奇想天外」とでも言うべき打ち方の違いを痛感した。真面目であることと、融通が利かないことは、紙一重だ。いや、むしろ、紙どころか、もう封筒にすら入らないくらい違うのかもしれない。
いつもの昼休み。定時退社まであと30分。田中は、意を決して佐藤に頭を下げた。
「佐藤さん。今度、どうか、私に囲碁を教えてもらえませんか?」
佐藤は、ニヤリと笑った。いつもの飄々とした笑顔とは少し違う、悪戯っぽい、いや、もはや「悪魔的」とでも言うべき笑顔だった。
「いいっすよ。でも、田中さんの『定石』、ちょっとだけ『破り』ましょうか?」
田中は、経理の数字の裏に隠された、まだ見ぬ「定石破りの妙手」があるのかもしれない、と囲碁を通して「常識を疑う」ことの重要性を学んでいく予感に胸を躍らせた。定時退社なんて、些細なことだ。いや、むしろ、定時退社すらも「破る」ことで、もっと大きな「得」があるのかもしれない。そんな、経理部員にあるまじき、大胆な思考が頭をよぎった。
その日の対局は、田中が完敗した。しかし、以前よりもずっと柔軟な思考ができるようになった気がした。土間を出ようとした時、佐藤が声をかけた。
「あ、田中さん。今日の経費、ちょっとだけ『損益分岐点』を『最適化』しておきましたよ。これで田中さんの『定時退社』も安泰ですわ」
佐藤は、悪戯っぽく笑った。
「定石」を疑うことの面白さと、それが日常にもたらす予測不能な「得」を、皮肉を込めて表現。読後には、クスッと笑いながらも、物事の常識を疑うことの重要性を感じさせる。
「損益分岐点」の最適化で、定時退社が安泰になった田中一郎、その顔は、もはや定時退社を気にする顔ではなかった。それは、定石を破り、新たな「勝利」を目指す者の、輝かしい顔だった。まさか、囲碁の「手筋」が、経費精算の「手筋」にも繋がるなんて。人生、いや、経理とは、奥深い。そして、佐藤次郎という男は、深すぎる。