屋上の鉄棒、ハイパースリープの夢

夏休み前の放課後。空は、茹だるような光を溶かし込もうとして、まだらに白み始めていた。教室の窓から差し込む西日は、空気中の埃を金色に照らし出し、しん、と静まり返った部屋に、熱っぽい匂いを運んでくる。雨宮雫は、教科書に開いたままのページから目を離し、校庭に視線を滑らせた。遠く、鉄棒にしがみつく橘蓮の姿が、汗で濡れた肌の光沢と共に目に映る。彼がしなる体で鉄棒を掴む様を眺めていると、不意に、心臓の鼓動が速くなるのが分かった。授業中、隣の席に座る蓮と手が触れそうになった時の、あの肌を刺すような感覚。指先がかすかに震え、息が詰まるような気恥ずかしさが、今も肌に残っている。

体育の授業。鉄棒の練習で、雫はバランスを崩し、危うく地面に倒れ込みそうになった。その時、間一髪で蓮が彼女の腕を掴んだ。「大丈夫?」彼の声は、いつものように明るく響いた。だが、その腕から伝わってくる熱は、ただの汗のせいだけではないように感じられた。ほんの僅かな、指先から伝わる震え。雫は息を呑んだ。蓮の顔には、いつもの屈託のない笑顔があったが、その瞳の奥に、一瞬だけ、深く沈んだ、虚ろな光を見た気がした。

数日後、夏休みを目前に控えたある日の午後。雫は、人気のない校舎の屋上で、一人、涼んでいた。遠くで、誰かが鉄棒にぶら下がっている。見れば、蓮だった。彼は、まるで操り人形のように、ただ鉄棒に身を預けているだけ。その背中には、どこか寂しげな影が落ちていた。雫が声をかけようと、一歩踏み出したその時、蓮の小さな呟きが風に乗って聞こえてきた。「僕、未来に、行けたらいいなって思うんだ」。雫は、思わず立ち止まった。「未来?」彼女の声は、かすかに震えていた。蓮は、ゆっくりと顔を上げ、遠い空を見つめた。「もしかしたら、今の僕より、もっと…」。言葉は、そこで途切れた。その声には、諦めにも似た響きが混じっていた。雫の胸に、得体の知れない不安が、冷たい雫のように広がっていく。

その夜、雫は寝苦しさに何度も目を覚ました。夢の中で、彼女は屋上の鉄棒にぶら下がっていた。隣には、蓮がいる。彼は、雫の手をそっと握った。その手は、驚くほど冷たかった。まるで、氷のようだった。「ごめんね」。蓮は、それだけ言うと、ゆっくりと指を離していった。雫は、夢の中で叫びたくなった。彼が、何かを諦めようとしているのではないか。その冷たい手、虚ろな瞳、そして「ごめんね」という言葉が、脳裏をぐるぐると巡り、寝返りを打つたびに、熱い汗が肌を伝った。

翌朝。いてもたってもいられず、雫は屋上へと駆け上がった。階段を駆け上がる足音さえ、まるで他人事のように響く。息を切らして屋上に着くと、そこには、いつものように鉄棒の練習に励む蓮の姿があった。いつもの、元気な、明るい蓮。雫が駆け寄ると、蓮は練習の手を止め、不思議そうに彼女を見た。「どうしたの、雫?」。雫は、昨夜の夢のことを話そうとした。あの冷たい手のこと、虚ろな瞳のこと。だが、言葉が喉に詰まって出てこない。代わりに、不意に、口から滑り出たのは、「手が、冷たかったよ」という、夢の中の言葉だった。蓮は、一瞬、目を見開いた。そして、次の瞬間、いつものように、悪戯っぽく笑った。「えー?冷たくなかったよ。むしろ、雫のほうが熱かったんじゃない?」そう言って、蓮は雫の手に、自分の手を重ねてきた。その瞬間、蓮の指先から伝わる温かさ。そして、彼の指が雫の指に触れた時の、かすかな、しかし確かな震え。雫の頬は、まるで熱でも帯びたかのように、みるみるうちに赤く染まっていった。蓮は、雫の顔が赤くなるのを見て、ますます楽しそうに笑う。屋上に吹き抜ける風が、二人の間を優しく撫でていく。その風は、まるで、これから始まる甘い季節の予感のように、心地よかった。

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