量子煩悩
外界から完全に遮断された、冷たく無機質な空間。量子コンピュータの光が、壁一面に反射し、人の心を凍てつかせる。伝説のクイズ大会「量子迷宮」が、今、静かに幕を開けようとしていた。私の、橘玲奈の、そして佐伯聡への、全てを賭けた戦いが。賞品は、量子コンピュータ開発の最前線への参加権と、莫大な研究資金。だが、そんなものはどうでもいい。私が求めているのは、ただ一つ。佐伯に勝つこと。あの男に、私の全てをぶつけ、打ち砕くことだけだ。
「さあ、始まりました! 伝説のクイズ大会、『量子迷宮』! 今宵、その頂点に立つのは誰か!」
司会者、神崎蓮の声が、静寂を破る。幼馴染の、あの優しい声。だが、その瞳の奥に宿る、不安げな光を私は見逃さない。彼は、私のことを心配している。だが、この戦いに、彼の心配など入り込む隙間はない。
「第一問! 量子もつれを応用した、未知の素粒子の存在確率を問う問題です!」
問題は、予想を遥かに超える難解さだった。単なる知識を問うものではない。それは、人の心の深淵を覗き込み、倫理観を揺さぶるような、悪意に満ちた問いかけだった。
「ふむ。橘君、君には少々難しいかな?」
佐伯の声が、私の耳に突き刺さる。冷たく、嘲るような響き。彼は、私の過去を知っている。私が犯した、あの研究上の過ち。そして、それが引き起こした、取り返しのつかない悲劇を。
「黙らっしゃい、佐伯先生!」
声が、震える。怒りと、悔しさと、そして――憧れ。あの頃、私はあなたに憧れていた。あなたの導きで、この世界に足を踏み入れた。だが、あなたは私を裏切った。
「第二問! 量子テレポーテーションの原理を利用した、情報伝達の遅延に関する問題です。…この遅延が、かつて君の実験を失敗に導いた原因と、どう関係するのか、説明できますか?」
私の心臓が、激しく脈打つ。息が、詰まる。あの日の悪夢が、鮮明に蘇る。失敗。後悔。そして、佐伯の冷たい眼差し。
「――っ! あなたが、私を、私を! 私の才能を、私の情熱を、全て踏みにじった!」
叫び声が、会場に響き渡る。神崎が、私の名を呼ぶ声が聞こえる。だが、もう私の耳には届かない。私の世界は、佐伯への憎しみと、彼に勝つという一点に、全てが収束していた。
「第三問! 量子重ね合わせの状態を利用した、意識の分岐に関する問題です。…もし、君が別の選択をしていたとしたら、今の君は、ここにいるだろうか?」
佐伯の顔が、歪む。いや、私の目にはそう映った。彼の顔に浮かぶのは、勝利への確信か、それとも――。
「佐伯先生、この問題は、一体何を問うているのですか!」
私は、彼に詰め寄る。神崎が、私を止めようとする。だが、もう誰にも止められない。
「第四問! 量子コンピュータが、人間の感情を完全にシミュレートできるとしたら、その時、最も破壊的な感情とは何か?」
最終問題。それは、クイズではなかった。それは、佐伯からの、私への、宣戦布告だった。
「それは、嫉妬だ、玲奈!」
佐伯の声が、会場に響き渡る。彼の言葉は、私の心の奥底に潜む、最も醜い感情を、剥き出しにした。
「あなたに、私への憧れと、私を乗り越えたいという強い願望。そして、私に裏切られたという憎しみ。それらが混ざり合い、あなたの中で、最も醜悪な嫉妬を生み出した!」
「そう! あなたが私に植え付けた、あの醜い嫉妬です!」
私の声が、悲鳴のように響く。佐伯への、積年の怒りが、全身を駆け巡る。
「私を、私を、こんな醜い感情の塊にしたのは、あなたです! あなたが、私の全てを否定し、あなただけが正しいと、私に押し付けた!」
「そうだ、玲奈! そして、その嫉妬こそが、私をあなたにぶつけろと叫んでいる!」
佐伯は、狂気に満ちた笑みを浮かべ、私に叫び返す。
「私のすべてをぶつけて、お前を壊してやる! お前の、その醜い嫉妬ごと、お前を破壊してやる!」
「来なさい! 私のすべてを、あなたにぶつけてやる!」
二人の感情は、臨界点を超えた。会場全体が、私たちの激情の奔流に飲み込まれる。神崎が、私の名を叫ぶ声が、遠くで響いている。だが、もう何も聞こえない。ただ、燃え盛る炎のような、互いの感情だけが、そこにあった。壁に反響する、私たちの叫び声。それは、空間を歪ませ、この世界そのものを、破壊するかのようだった。