三分文庫

黒犬と焼肉の匂い

被験体734は、ネオ・アパートメント・セクター7の304号室に居住していた。空間は最小限に設計され、生活に必要な最低限の機能のみが統合されていた。食事、睡眠、排泄。それ以外の要素は、機能性の観点から排除されていた。窓の外には、都市の人工光が周期的な明滅を繰り返すのみで、外界との直接的な接触はオペレーターによる定期的な生体データと行動ログの収集に限定されていた。

オペレーターは、被験体734の活動を静かに記録していた。感情の起伏は見られず、その行動は予測可能な範囲内に収まっていた。それは、オペレーターの分析対象として、極めて標準的なデータセットであった。

ある日、通常とは異なる指示がオペレーターに下された。被験体734の生活空間に、新たな生体ユニットが配置されることになった。それは「黒犬」と呼称される、黒い毛皮を持つ犬であった。被験体734は、黒犬の出現に対して、特段の感情的反応を示さなかった。黒犬は、被験体734の周囲を静かに観察するように徘徊した。その存在は、空間に新たな、しかし静謐な要素を加えただけのように見えた。

週に一度、被験体734には栄養ペーストが配給される。その日は、標準的な配給に加えて、特別な処置が施されていた。人工的に再現された「焼肉」の匂いが、部屋の空調システムを通じて拡散された。分子レベルで調整された匂いの成分が、被験体734の嗅覚受容体を刺激した。オペレーターのセンサーは、脳内の特定の神経伝達物質の分泌が、微増した可能性を示唆した。被験体734は、その匂いに際して、微かな、しかし認識可能な反応を示した。それは、オペレーターの記録範囲内であった。

焼肉の匂いが充満する中、黒犬の行動に変化が見られた。被験体734の周囲を徘徊する頻度が増し、その視線は栄養ペーストを摂取する被験体734に注がれていた。被験体734がペーストを摂取し終える直前、黒犬は異常な興奮を示し始めた。低く唸り声を上げ、部屋の壁面を鋭い爪で引っ掻き始めた。その音は、静謐な空間に不協和音として響いた。

オペレーターの監視ログに、黒犬の異常行動が記録された。被験体734は、黒犬の行動に動じることなく、淡々と食事を終えた。そして、立ち上がった。その瞬間、黒犬は被験体734の足元に飛びかかり、その衣服の裾を噛みちぎろうとした。被験体734は、この予期せぬ物理的接触に対し、明確な拒絶の姿勢を示した。黒犬を突き放した。その際、黒犬の体毛の一部が、被験体734の手に付着した。被験体734は、その体毛を剥がそうとはしなかった。そのまま、指先に黒犬の体毛が付着した状態を維持した。突き放した指先が、微かに、しかし認識可能な範囲で震えていた。

オペレーターは、黒犬の異常行動を検知し、迅速に回収処置を実行した。回収された黒犬の生体データは、回収直前の異常な興奮状態を示していた。被験体734は、何事もなかったかのように、自室の静寂に戻った。オペレーターは、被験体734の生体データと行動ログ、そして黒犬の異常行動との相関性を分析し、新たなレポートを作成した。被験体734の手に付着した黒犬の体毛は、その後もそのまま残されていた。部屋には、かすかに焼肉の匂いの残滓が漂っていた。この匂いの成分は、回収された黒犬の体毛から放出される微量の揮発性物質と、成分分析上、類似性が認められた。被験体734は、その体毛を剥がすでもなく、あるいはそれを異物として認識するでもなく、ただ静かにその状態を維持していた。ガラスケースの中の標本が、静かに観察されているように。

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