マンション民主化ジョギング
毎朝、築30年のグリーンハイツの敷地をスタート地点とするジョギングは、田中一郎にとって数少ない日課だった。しかし、最近になって、このささやかな習慣に、自治会長である佐藤良子の影が忍び寄ってきた。「共用部分の美化」「早朝の騒音問題」など、彼女の「民主的な」提案は、次第にジョギングそのものにまで及ぶようになった。田中は「まあ、みんなのためなら…」と内心では思っていても、その強引で細やかな口出しに、ただただ辟易していた。
ある日、住民集会が開かれ、良子は「ジョギング民主化」なるものを提唱した。ルート、時間帯、さらにはジョギングウェアの色まで、全て住民投票で決定しようというのだ。田中は、いつものように「みんなのためなら」と表面上は同意したものの、そのあまりに緻密な計画に、心底うんざりしていた。まるで、ジョギングという個人の自由な行為まで、マンションの管理規約に縛り付けようとしているかのようだった。
そんな中、ジョギング愛好家を自称する鈴木健太が、良子の「ジョギング民主化」に賛同の意を示した。しかし、彼の提案は、良子の「マンション内の秩序」とは微妙にズレていた。「より効率的で、より映える」ジョギングの確立。それは、SNS映えを意識した、自己満足的なジョギングスタイルだった。田中は、良子の「秩序」と鈴木の「映え」という、全く噛み合わない二人の主導権争いの渦中に巻き込まれ、ますます面倒くささを感じていた。どちらに転んでも、田中にとってのジョギングは、より窮屈なものになるに違いなかった。
住民投票の結果、ジョギングコースは「マンション敷地内一周」に決定された。しかし、良子はそれだけでは飽き足らなかった。「歩道は歩行者優先ですわ!」と、まさかの歩幅制限まで言い出したのだ。対する鈴木は「もっとダイナミックな動きを!これじゃあ、映えませんよ!」と、良子の決定に真っ向から反発した。田中は、この馬鹿げた論争にすっかり嫌気が差し、こっそりとマンションの外へと抜け出した。ここで彼は、ふと「本当のジョギングとは、誰かのルールに従うことではなく、自分自身のペースで走ることではないか」と、一瞬だけ、しかし確かにそう思った。その考えは、すぐに「まあ、どうでもいいか」という日常の無気力さに掻き消されたが。
マンションの外で、いつものように、誰の干渉も受けずにジョギングを終え、玄関に戻ると、ロビーで良子と鈴木が、相変わらず激しく言い争っていた。良子は「歩幅制限の重要性」を、鈴木は「SNS映えするジョギングフォーム」を、それぞれが「民主的な」意見として、熱弁を振るっていた。田中は、その滑稽な二人を横目に、静かに自室へと戻る階段を上り始めた。エレベーターを待つ気力すら湧かなかった。結局、あの二人も、そしておそらくマンションの多くの住民も、本当のジョギングなんて、とっくに忘れてしまっているのだろう。「まあ、みんなのためなら…」という言葉は、いつだって誰かの都合の良い「民主主義」にすり替えられてしまうのだ。マンションの階段を上る振動で、田中はまた息を切らしていた。